きゃあん。きゃあん。助けてくれえ!」
 白は思わず身震《みぶる》いをしました。この声は白の心の中へ、あの恐ろしい黒の最後をもう一度はっきり浮ばせたのです。白は目をつぶったまま、元来た方へ逃げ出そうとしました。けれどもそれは言葉通り、ほんの一瞬の間《あいだ》のことです。白は凄《すさま》じい唸《うな》り声を洩《も》らすと、きりりとまた振り返りました。
「きゃあん。きゃあん。助けてくれえ! きゃあん。きゃあん。助けてくれえ!」
 この声はまた白の耳にはこう云う言葉にも聞えるのです。
「きゃあん。きゃあん。臆病《おくびょう》ものになるな! きゃあん。臆病ものになるな!」
 白は頭を低めるが早いか、声のする方へ駈《か》け出しました。
 けれどもそこへ来て見ると、白の目の前へ現れたのは犬殺しなどではありません。ただ学校の帰りらしい、洋服を着た子供が二三人、頸《くび》のまわりへ縄《なわ》をつけた茶色の子犬を引きずりながら、何かわいわい騒《さわ》いでいるのです。子犬は一生懸命に引きずられまいともがきもがき、「助けてくれえ。」と繰り返していました。しかし子供たちはそんな声に耳を借すけしきもありません。ただ笑ったり、怒鳴《どな》ったり、あるいはまた子犬の腹を靴《くつ》で蹴《け》ったりするばかりです。
 白は少しもためらわずに、子供たちを目がけて吠えかかりました。不意を打たれた子供たちは驚いたの驚かないのではありません。また実際白の容子《ようす》は火のように燃えた眼の色と云い、刃物《はもの》のようにむき出した牙《きば》の列と云い、今にも噛《か》みつくかと思うくらい、恐ろしいけんまくを見せているのです。子供たちは四方《しほう》へ逃げ散りました。中には余り狼狽《ろうばい》したはずみに、路《みち》ばたの花壇へ飛びこんだのもあります。白は二三間追いかけた後《のち》、くるりと子犬を振り返ると、叱《しか》るようにこう声をかけました。
「さあ、おれと一しょに来い。お前の家《うち》まで送ってやるから。」
 白は元来《もとき》た木々の間《あいだ》へ、まっしぐらにまた駈《か》けこみました。茶色の子犬も嬉しそうに、べンチをくぐり、薔薇《ばら》を蹴散《けち》らし、白に負けまいと走って来ます。まだ頸にぶら下った、長い縄をひきずりながら。

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 二三時
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