間たった後《のち》、白は貧しいカフェの前に茶色の子犬と佇《たたず》んでいました。昼も薄暗いカフェの中にはもう赤あかと電燈がともり、音のかすれた蓄音機《ちくおんき》は浪花節《なにわぶし》か何かやっているようです。子犬は得意《とくい》そうに尾を振りながら、こう白へ話しかけました。
「僕はここに住んでいるのです。この大正軒《たいしょうけん》と云うカフェの中に。――おじさんはどこに住んでいるのです?」
「おじさんかい?――おじさんはずっと遠い町にいる。」
 白は寂しそうにため息をしました。
「じゃもうおじさんは家《うち》へ帰ろう。」
「まあお待ちなさい。おじさんの御主人はやかましいのですか?」
「御主人? なぜまたそんなことを尋《たず》ねるのだい?」
「もし御主人がやかましくなければ、今夜はここに泊《とま》って行って下さい。それから僕のお母さんにも命拾いの御礼を云わせて下さい。僕の家には牛乳だの、カレエ・ライスだの、ビフテキだの、いろいろな御馳走《ごちそう》があるのです。」
「ありがとう。ありがとう。だがおじさんは用があるから、御馳走になるのはこの次にしよう。――じゃお前のお母さんによろしく。」
 白はちょいと空を見てから、静かに敷石の上を歩き出しました。空にはカフェの屋根のはずれに、三日月《みかづき》もそろそろ光り出しています。
「おじさん。おじさん。おじさんと云えば!」
 子犬は悲しそうに鼻を鳴らしました。
「じゃ名前だけ聞かして下さい。僕の名前はナポレオンと云うのです。ナポちゃんだのナポ公だのとも云われますけれども。――おじさんの名前は何と云うのです?」
「おじさんの名前は白と云うのだよ。」
「白――ですか? 白と云うのは不思議ですね。おじさんはどこも黒いじゃありませんか?」
 白は胸が一ぱいになりました。
「それでも白と云うのだよ。」
「じゃ白のおじさんと云いましょう。白のおじさん。ぜひまた近い内《うち》に一度来て下さい。」
「じゃナポ公、さよなら!」
「御機嫌好《ごきげんよ》う、白のおじさん! さようなら、さようなら!」

        四

 その後《のち》の白はどうなったか?――それは一々話さずとも、いろいろの新聞に伝えられています。大《おお》かたどなたも御存じでしょう。度々《たびたび》危《あやう》い人命を救った、勇ましい一匹の黒犬のあるのを。また一時『義犬
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