芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)午《ひる》過ぎ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)会社員|柴山鉄太郎《しばやまてつたろう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]
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        一

 ある春の午《ひる》過ぎです。白《しろ》と云う犬は土を嗅《か》ぎ嗅ぎ、静かな往来を歩いていました。狭い往来の両側にはずっと芽をふいた生垣《いけがき》が続き、そのまた生垣の間《あいだ》にはちらほら桜なども咲いています。白は生垣に沿いながら、ふとある横町《よこちょう》へ曲りました。が、そちらへ曲ったと思うと、さもびっくりしたように、突然立ち止ってしまいました。
 それも無理はありません。その横町の七八間先には印半纏《しるしばんてん》を着た犬殺しが一人、罠《わな》を後《うしろ》に隠したまま、一匹の黒犬を狙《ねら》っているのです。しかも黒犬は何も知らずに、犬殺しの投げてくれたパンか何かを食べているのです。けれども白が驚いたのはそのせいばかりではありません。見知らぬ犬ならばともかくも、今犬殺しに狙われているのはお隣の飼犬《かいいぬ》の黒《くろ》なのです。毎朝顔を合せる度にお互《たがい》の鼻の匂《におい》を嗅ぎ合う、大の仲よしの黒なのです。
 白は思わず大声に「黒君! あぶない!」と叫ぼうとしました。が、その拍子《ひょうし》に犬殺しはじろりと白へ目をやりました。「教えて見ろ! 貴様から先へ罠《わな》にかけるぞ。」――犬殺しの目にはありありとそう云う嚇《おどか》しが浮んでいます。白は余りの恐ろしさに、思わず吠《ほ》えるのを忘れました。いや、忘れたばかりではありません。一刻もじっとしてはいられぬほど、臆病風《おくびょうかぜ》が立ち出したのです。白は犬殺しに目を配《くば》りながら、じりじり後《あと》すざりを始めました。そうしてまた生垣《いけがき》の蔭に犬殺しの姿が隠れるが早いか、可哀《かわい》そうな黒を残したまま、一目散《いちもくさん》に逃げ出しました。
 その途端《とたん》に罠が飛んだのでしょう。続けさまにけたたましい黒の鳴き声が聞えました。しかし白は引き返すどころか、足を止めるけしき
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