》の経験がないのだそうである。それでなければ、とてもこんなに顔のゆがんでいる僕をつかまえて辣腕《らつわん》をふるえる筈がない。
 かえりに区役所前の古道具屋で、青磁《せいじ》の香炉《こうろ》を一つ見つけて、いくらだと云ったら、色眼鏡《いろめがね》をかけた亭主《ていしゅ》が開闢《かいびゃく》以来のふくれっ面《つら》をして、こちらは十円と云った。誰がそんなふくれっ面の香炉を買うものか。
 それから広小路《ひろこうじ》で、煙草と桃とを買ってうちへ帰った。歯の痛みは、それでも前とほとんど変りがない。
 午飯《ひるめし》の代りに、アイスクリイムと桃とを食って、二階へ床《とこ》をとらせて、横になった。どうも気分がよくないから、検温器を入れて見ると、熱が八度ばかりある。そこで枕を氷枕《こおりまくら》に換えて、上からもう一つ氷嚢《ひょうのう》をぶら下《さ》げさせた。
 すると二時頃になって、藤岡蔵六《ふじおかぞうろく》が遊びに来た。到底《とうてい》起きる気がしないから、横になったまま、いろいろ話していると、彼が三分《さんぶ》ばかりのびた髭《ひげ》の先をつまみながら、僕は明日《あす》か明後日《あさって》
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