くは琴だ二絃琴だと云って、喧嘩していたが、その中《うち》に楽器の音《ね》がぴったりしなくなった。今になって考えて見ると、どうもあれはこっちの議論が、向うの人に聞えたのに相違ない。そう思うと、僕はいいが、赤木は向う同志と云う関係上、もっと恐縮して然るべき筈である。
帰りに池《いけ》の端《はた》から電車へ乗ったら、左の奥歯が少し痛み出した。舌をやってみると、ぐらぐら動くやつが一本ある。どうも赤木の雄弁に少し祟《たた》られたらしい。
三十日
朝起きたら、歯の痛みが昨夜《ゆうべ》よりひどくなった。鏡に向って見ると、左の頬が大分《だいぶ》腫《は》れている。いびつになった顔は、確《たしか》にあまり体裁《ていさい》の好《い》いものじゃない。そこで右の頬をふくらせたら、平均がとれるだろうと思って、そっちへ舌をやって見たが、やっぱり顔は左の方へゆがんでいる。少くとも今日《きょう》一日、こんな顔をしているのかと思ったら、甚《はなはだ》不平な気がして来た。
ところが飯を食って、本郷の歯医者へ行ったら、いきなり奥歯を一本ぬかれたのには驚いた。聞いて見ると、この歯医者の先生は、いまだかつて歯痛《しつう
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