点心
芥川龍之介

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)御降《おさが》り

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)晩年|床《とこ》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]

 [#…]:返り点
 (例)不[#レ]思《おぼえず》

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔E'cole des Femmes〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
−−

     御降《おさが》り

 今日《けふ》は御降《おさが》りである。尤《もつと》も歳事記《さいじき》を検《しら》べて見たら、二日《ふつか》は御降りと云はぬかも知れぬ。が蓬莱《ほうらい》を飾つた二階にゐれば、やはり心もちは御降りである。下では赤ん坊が泣き続けてゐる。舌に腫物《はれもの》が出来たと云ふが、鵞口瘡《がこうそう》にでもならねば好《よ》い。ぢつと炬燵《こたつ》に当りながら、「つづらふみ」を読んでゐても、心は何時《いつ》かその泣き声にとられてゐる事が度々ある。私《わたし》の家は鶉居《じゆんきよ》ではない。娑婆《しやば》界の苦労は御降りの今日《けふ》も、遠慮なく私を悩ますのである。昔或御降りの座敷に、姉《あね》や姉の友達と、羽根をついて遊んだ事がある。その仲間には私の外《ほか》にも、私より幾つか年上の、おとなしい少年が交《まじ》つてゐた。彼は其処《そこ》にゐた少女たちと、悉《ことごとく》仲好しの間がらだつた。だから羽根をつき落したものは、羽子板を譲る規則があつたが、自然と誰でも私より、彼へ羽子板を渡し易かつた。所がその内にどう云ふ拍子《ひやうし》か、彼のついた金羽根《きんばね》が、長押《なげ》しの溝《みぞ》に落ちこんでしまつた。彼は早速《さつそく》勝手から、大きな踏み台を運んで来た。さうしてその上へ乗りながら、長押《なげ》しの金羽根を取り出さうとした。その時私は背《せい》の低い彼が、踏み台の上に爪立《つまだ》つたのを見ると、いきなり彼の足の下から、踏み台を側《わき》へ外《はづ》してしまつた。彼は長押しに手をかけた儘、ぶらりと宙へぶら下つた。姉や姉の友だちは、さう云ふ彼を救ふ為に、私を叱つたり賺《すか》したりした。が、私はどうしても、踏み台を人手《ひとで》に渡さなかつた。彼は少時《しばらく》下つてゐた後《のち》、両手の痛みに堪へ兼たのか、とうとう大声に泣き始めた。して見れば御降《おさが》りの記憶の中にも、幼いながら嫉妬《しつと》なぞと云ふ娑婆《しやば》界の苦労はあつたのである。私に泣かされた少年は、その後《のち》学問の修業はせずに、或会社へ通《かよ》ふ事になつた。今ではもう四人の子の父親になつてゐるさうである。私の家の御降りは、赤ん坊の泣き声に満たされてゐる。彼の家の御降りはどうであらう。(一月二日)
[#天から3字下げ]御降《おさが》りや竹ふかぶかと町の空

     夏雄の事

 香取秀真《かとりほづま》氏の話によると、加納夏雄《かなふなつを》は生きてゐた時に、百円の月給を取つてゐた由。当時百円の月給取と云へば、勿論人に羨《うらや》まれる身分だつたのに相違ない。その夏雄が晩年|床《とこ》に就《つ》くと、屡《しばしば》枕もとへ一面に小判《こばん》や大判《おほばん》を並べさせては、しけじけと見入つてゐたさうである。さうしてそれを見た弟子《でし》たちは、先生は好《い》い年になつても、まだ貪心《たんしん》が去らないと見える、浅間《あさま》しい事だと評したさうである。しかし夏雄が黄金《わうごん》を愛したのは、千葉勝《ちばかつ》が紙幣《しへい》を愛したやうに、黄金の力を愛したのではあるまい。床を離れるやうになつたら、今度はあの黄金の上に、何を刻《きざ》んで見ようかなぞと、仕事の工夫《くふう》をしてゐたのであらう。師匠に貪心《たんしん》があると思つたのは、思つた弟子《でし》の方が卑《いや》しさうである。香取《かとり》氏はかう病牀《びやうしやう》にある夏雄の心理を解釈した。私《わたし》も恐らくさうだらうと思ふ。所がその後《ご》或男に、この逸話を話して聞かせたら、それはさもあるべき事だと、即座に賛成の意を表した。彼の述べる所によると、彼が遊蕩《いうたう》を止《や》めないのも、実は人生を観ずる為の手段に過ぎぬのださうである。さうしてその機微を知らぬ世俗が、すぐに兎《と》や角《かく》非難をするのは、夏雄の場合と同じださうである。が、実際さうか知らん。(一月六日)

     冥途

 この頃|内田百間《うちだひやくけん》氏の「冥途《めいど》」(新小説新年号所載)と云ふ小品を読んだ。「冥途」「山東京伝《さんとうきやうでん》」「花火」「件《くだん》」「土手《どて》」「豹」等《とう》、悉《ことごとく》夢を書いたものである。漱石《そうせき》先生の「夢十夜」のやうに、夢に仮託《かたく》した話ではない。見た儘に書いた夢の話である。出来は六篇の小品中、「冥途」が最も見事である。たつた三頁ばかりの小品だが、あの中には西洋じみない、気もちの好《い》い Pathos が流れてゐる。しかし百間氏の小品が面白いのは、さう云ふ中味の為ばかりではない。あの六篇の小品を読むと、文壇離れのした心もちがする。作者が文壇の塵氛《ぢんぷん》の中に、我々同様呼吸してゐたら、到底《たうてい》あんな夢の話は書かなかつたらうと云ふ気がする。書いてもあんな具合《ぐあひ》には出来なからうと云ふ気がする。つまり僕にはあの小品が、現在の文壇の流行なぞに、囚《とら》はれて居らぬ所が面白いのである。これは僕自身の話だが、何かの拍子《ひやうし》に以前出した短篇集を開いて見ると、何処《どこ》か流行に囚《とら》はれてゐる。実を云ふと僕にしても、他人の廡下《ぶか》には立たぬ位な、一人前《いちにんまへ》の自惚《うぬぼ》れは持たぬではない。が、物の考へ方や感じ方の上で見れば、やはり何処《どこ》か囚はれてゐる。(時代の影響と云ふ意味ではない。もつと膚浅《ふせん》な囚はれ方である。)僕はそれが不愉快でならぬ。だから百間氏の小品のやうに、自由な作物にぶつかると、余計《よけい》僕には面白いのである。しかし人の話を聞けば、「冥途《めいど》」の評判は好《よ》くないらしい。偶《たまたま》僕の目に触れた或新聞の批評家なぞにも、全然あれがわからぬらしかつた。これは一方現状では、尤《もつと》ものやうな心もちがする。同時に又一方では、尤もでないやうな心もちもする。(一月十日)

     長井代助

 我々と前後した年齢の人々には、漱石《そうせき》先生の「それから」に動かされたものが多いらしい。その動かされたと云ふ中でも、自分が此処《ここ》に書きたいのは、あの小説の主人公|長井代助《ながゐだいすけ》の性格に惚《ほ》れこんだ人々の事である。その人々の中には惚れこんだ所《どころ》か、自《みづか》ら代助を気取つた人も、少くなかつた事と思ふ。しかしあの主人公は、我々の周囲を見廻しても、滅多《めつた》にゐなさうな人間である。「それから」が発表された当時、世間にはやつてゐた自然派の小説には、我々の周囲にも大勢《おほぜい》ゐさうな、その意味では人生に忠実な性格描写《せいかくべうしや》が多かつた筈である。しかし自然派の小説中、「それから」のやうに主人公の模倣者《もはうしや》さへ生んだものは見えぬ。これは独り「それから」には限らず、ウエルテルでもルネでも同じ事である。彼等はいづれも一代を動揺させた性格である。が、如何《いか》に西洋でも、彼等のやうな人間は、滅多《めつた》にゐぬのに相違ない。滅多にゐぬやうな人間が、反《かへ》つて模倣者さへ生んだのは、滅多《めつた》にゐぬからではあるまいか。無論滅多にゐぬと云ふ事は、何処《どこ》にもゐぬと云ふ意味ではない。何処にもゐるとは云へぬかも知れぬ、が、何処かにゐさうだ位の心もちを含んだ言葉である。人々はその主人公が、手近《てぢか》に住んで居らぬ所に、※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]《しやうけい》の意味を見出《みいだ》すのであらう。さうして又その主人公が、何処かに住んでゐさうな所に、※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]《しやうけい》の可能性を見出《みいだ》すのであらう。だから小説が人生に、人間の意欲に働きかける為には、この手近に住んでゐない、しかも何処かに住んでゐさうな性格を創造せねばならぬ。これが通俗に云ふ意味では、理想主義的な小説家が負はねばならぬ大任である。カラマゾフを書いたドストエフスキイは、立派《りつぱ》にこの大任を果してゐる。今後の日本では仰《そもそも》誰が、かう云ふ性格を造り出すであろう。(一月十三日)

     嘲魔《てうま》

 一《ひと》かどの英霊を持つた人々の中には、二つの自己が住む事がある。一つは常に活動的な、情熱のある自己である。他の一つは冷酷《れいこく》な、観察的な自己である。この二つの自己を有する人々は、ややもすると創作力の代りに、唯賢明な批評力を獲得《くわくとく》するだけに止《とど》まり易い。M. de la Rochefoucauld はこれである。が、モリエエルはさうではない。彼はこの二つの自己の分裂を感じない人間であつた。不思議にもこの二つの自己を同時に生きる人間であつた。彼が古今《ここん》に独歩する所以《ゆゑん》は、かう云ふ壮厳な矛盾《むじゆん》の中にある。Sainte−Beuve のモリエエル論を読んでゐたら、こんな事を書いた一節があつた。私《わたし》も私自身の中《うち》に、冷酷な自己の住む事を感ずる。この嘲魔《てうま》を却《しりぞ》ける事は、私の顔が変へられないやうに、私自身には如何《いかん》とも出来ぬ。もし年をとると共に、嘲魔のみが力を加へれば、私も亦《また》メリメエのやうに、「私の友人のなにがしがかう云ふ話をして聞かせた」なぞと、書き始める事にも倦《う》みさうである。殊に虚無の遺伝がある東洋人の私には容易かも知れぬ。L'Avare や 〔E'cole des Femmes〕 を書いたモリエエルは、比類の少い幸福者《かうふくしや》である。が、奸妻《かんさい》に悩まされ、病肺《びやうはい》に苦しまされ、作者と俳優と劇場監督と三役《みやく》の繁務に追はれながら、しかも猶《なほ》この嘲魔の毒手に、陥らなかつたモリエエルは、愈《いよいよ》羨望《せんばう》に価すべき比類の少い幸福者である。(一月十四日)

     池西言水

「言ひ難きを言ふは老練の上の事なれど、そは多く俗|事物《じぶつ》を詠じて、雅《が》ならしむる者のみ。其事物|如何《いか》に雅致《がち》ある者なりとも、十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめん事は、殆《ほとん》ど為《な》し得べからざる者なれば、古来の俳人も皆之を試みざりしに似たり。然れども一二此種の句なくして可ならんや。池西言水《いけにしごんすゐ》は実に其作者なり。」これは正岡子規《まさをかしき》の言葉である。(俳諧大要。一五六頁)子規《しき》はその後《のち》に実例として、言水の句二句を掲げてゐる。それは「姨《をば》捨てん湯婆《たんぽ》に燗《かん》せ星月夜」と「黒塚《くろづか》や局女《つぼねをんな》のわく火鉢」との二句である。自分は言水のこれらの句が、「十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめ」たとするには、何《なん》の苦情も持つて居らぬ。しかしこの意味では蕪村《ぶそん》や召波《せうは》も、「十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめ」てはゐないか。「御手打《おてうち》の夫婦なりしを衣更《ころ
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング