烽ェ》へ」や「いねかしの男うれたき砧《きぬた》かな」も、やはり複雑な内容を十七字の形式につづめてはゐないか。しかも「燗《かん》せ」や「わく」と云ふ言葉使ひが耳立たないだけに、一層成功してはゐないか。して見れば子規が評した言葉は、言水にも確《たしか》に当《あ》て嵌《は》まるが、言水の特色を云ひ尽すには、余りに広すぎる憾《うら》みはないか。かう自分は思ふのである。では言水の特色は何かと云へば、それは彼が十七字の内に、万人《ばんにん》が知らぬ一種の鬼気《きき》を盛《も》りこんだ手際《てぎは》にあると思ふ。子規が掲げた二句を見ても、すぐに自分を動かすのは、その中に漂《ただよ》ふ無気味《ぶきみ》さである。試《こころみ》に言水句集を開けば、この類の句は外《ほか》にも多い。
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御忌《ぎよき》の鐘皿割る罪や暁《あけ》の雲
つま猫の胸の火や行《ゆ》く潦《にはたづみ》
夜桜に怪しやひとり須磨《すま》の蜑《あま》
蚊柱《かばしら》の礎《いしずゑ》となる捨子《すてこ》かな
人魂《ひとだま》は消えて梢《こずゑ》の燈籠《とうろ》かな
あさましや虫鳴く中に尼ひとり
火の影や人にて凄き網代守《あじろもり》
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 句の佳否《かひ》に関《かかは》らず、これらの句が与へる感じは、蕪村《ぶそん》にもなければ召波《せうは》にもない。元禄《げんろく》でも言水《げんすゐ》唯|一人《ひとり》である。自分は言水の作品中、必《かならず》しもかう云ふ鬼趣《きしゆ》を得た句が、最も神妙なものだとは云はぬ。が、言水が他の大家《たいか》と特に趣を異にするのは、此処《ここ》にあると云はざるを得ないのである。言水通称は八郎兵衛《はちろべゑ》、紫藤軒《しとうけん》と号した。享保《きやうはう》四年歿。行年《ぎやうねん》は七十三である。(一月十五日)

     托氏《とし》宗教小説

 今日《けふ》本郷《ほんがう》通りを歩いてゐたら、ふと托氏《とし》宗教小説と云う本を見つけた。価《あたひ》を尋ねれば十五銭だと云ふ。物質生活のミニマムに生きてゐる僕は、この間《あひだ》渦福《うづふく》の鉢を買はうと思つたら、十八円五十銭と云ふのに辟易《へきえき》した。が、十五銭の本|位《くらゐ》は、仕合せと買へぬ身分でもない。僕は早速《さつそく》三箇の白銅の代りに、薄つぺらな本を受け取つた。それが今僕の机の上に、古ぼけた表紙を曝《さら》してゐる。托氏《とし》宗教小説は、西暦千九百有七年、支那では光緒《くわうしよ》三十三年、香港《ホンコン》の礼賢《れいけん》会(Rhenish Missionary Society)が、剞※[#「厥+りっとう」、第4水準2−3−30]《きけつ》に付した本である。訳者は独逸《ドイツ》の宣教師 〔Gena:hr〕 と云ふ人である。但し翻訳に用ひた本は、Nisbet Bain の英訳だと云ふ、内容は名高い主奴《しゆど》論以下、十二篇の作品を集めてゐる。この本は勿論珍書ではあるまい。文求堂《ぶんきうだう》に頼みさへすれば、すぐに取つてくれるかも知れぬ。が、表紙を開けた所に、原著者|托爾斯泰《トルストイ》の写真があるのは、何《なん》となしに愉快である。好《い》い加減に頁《ペエジ》を繰つて見れば、牧色《ムジイク》、加夫単《カフタン》、沽未士《クミス》なぞと云ふ、西洋語の音訳が出て来るのも、僕にはやはり物珍しい。こんな翻訳が上梓《じやうし》された事は原著者|托氏《とし》も知つてゐたであらうか。香港《ホンコン》上海《シヤンハイ》の支那人の中には、偶然この本を読んだ為めに、生涯|托氏《とし》を師と仰いだ、若干《じやくかん》の青年があつたかも知れぬ。托氏はさう云ふ南方の青年から、遙《はるか》に敬愛を表すべき手紙を受け取りはしなかつたであらうか。私《わたし》は托氏宗教小説を前に、この文章を書きながら、そんな空想を逞《たくま》しくした。托氏とは伯爵トルストイである。(一月二十八日)
「西洋の民は自由を失つた。恢復の望みは殆《ほとん》ど見えない。東洋の民はこの自由を恢復すべき使命がある。」これは次手《ついで》に孫引きにしたトルストイの書簡の一節である。(一月三十日)

     印税

 Jules Sandeau のいとこが Palais Royal のカツフエへ行つてゐると、出版|書肆《しよし》のシヤルパンテイエが、バルザツクと印税の相談をしてゐた。その後《のち》彼等が忘れて行つた紙を見たら、無暗《むやみ》に沢山《たくさん》の数字が書いてあつた。サンドオがバルザツクに会つた時、この数字の意味を問ひ訊《ただ》すと、それは著者が十万部売切れた場合、著者の手に渡るべき印税の額だつたと云ふ。当時バルザツクが定《き》めた印税は、オクタヴオ版三フラン半の本一冊につき、定価の一割を支払ふのだつた。して見ればまづ日本の作家が、現在取つてゐる印税と大差がなかつた訣《わけ》である。が、これがバルザツクがユウジエニエ・グランデエを書いた時分だから、千八百三十二年か三年頃の話である。まあ印税も日本では、西洋よりざつと百年ばかり遅れてゐると思へば好《よ》い。原稿成金なぞと云つても、日本では当分小説家は、貧乏に堪へねばならぬやうである。(一月三十日)

     日米関係

 日米関係と云つた所が、外交問題を論ずるのではない。文壇のみに存在する日米関係を云ひたいのである。日本に学ばれる外国語の中では、英吉利《イギリス》語程範囲の広いものはない。だから日本の文士たちも、大抵《たいてい》は英吉利語に手依《たよ》つてゐる。所が英吉利なり亜米利加《アメリカ》なり、本来の英吉利語文学は、シヨオとかワイルドとか云ふ以外に、余り日本では流行しない。やはり読まれるのは大陸文学である。然るに英吉利語訳の大陸文学は、亜米利加向きのものが多い。何故《なぜ》と云へばホイツトマン以後、芸術的に荒蕪《くわうぶ》な亜米利加は、他国に天才を求めるからである。その関係上日本の文壇は、さ程|著《いちじる》しくないにしても、近年は亜米利加の流行に、影響される形がないでもない。イバネスの名前が聞え出したのは、この実例の一つである。(僕が高等学校の生徒だつた頃は、あの「大寺院の影」の外《ほか》に、英吉利語訳のイバネスは何処《どこ》を探しても見当らなかつた。)向う河岸《がし》の火の手が静まつたら、今度はパピニなぞの伊太利《イタリイ》文学が、日本にも紹介され出すかも知れぬ。これは大陸文学ではないが、以前文壇の一角に、愛蘭土《アイルランド》文学が持《も》て囃《はや》されたのも、火の元は亜米利加にあつたやうだ。かう云ふ日米関係は、英吉利語文学が流行しないだけに存外《ぞんぐわい》見落され勝ちのやうである。偶《たまたま》丸善へ行つて見たら、イバネス、ブレスト・ガナ、デ・アラルコン、バロハなぞの西班牙《スペイン》小説が沢山《たくさん》並べてあつた為め、こんな事を記《しる》して置く気になつた。(二月一日)

     Ambroso Bierce

 日米関係を論じた次手《ついで》に、亜米利加《アメリカ》の作家を一人《ひとり》挙げよう。アムブロオズ・ビイアスは毛色の変つた作家である。(一)短篇小説を組み立てさせれば、彼程鋭い技巧家は少い。評論がポオの再来と云ふのは、確《たしか》にこの点でも当つてゐる。その上彼が好んで描《ゑが》くのは、やはりポオと同じやうに、無気味《ぶきみ》な超自然の世界である。この方面の小説家では、英吉利《イギリス》に Algernon Blackwood があるが、到底《たうてい》ビイアスの敵ではない。(二)彼は又批評や諷刺詩《ふうしし》を書くと、辛辣無双《しんらつむさう》な皮肉家である。現にレジンスキイと云ふ、確か波蘭土《ポオランド》系の詩人の如きは、彼の毒舌に翻弄《ほんろう》された結果自殺を遂げたと云はれてゐる。が、彼の批評を読めば、精到の妙はないにしても、犀利《さいり》の快には富んでゐると思ふ。(三)彼は同時代の作家の中では、最もコスモポリタンだつた。南北戦争に従軍した事もある。桑港《サンフランシスコ》の雑誌の主筆をした事もある。倫敦《ロンドン》に文を売つてゐた事もある。しかも彼は生きたか死んだか、未《いまだ》に行方《ゆくへ》が判然しない。中には彼の悪口《あくこう》が、余りに人を傷けた為め暗殺されたのだと云ふものもある。(四)彼の著書には十二巻の全集がある。短篇小説のみ読みたい人は In the Midst of Life 及び Can Such Things Be ? の二巻に就《つ》くが好《よ》い。私はこの二巻の中《うち》に、特に前者を推したいのである。後者には佳作は一二しか見えぬ。(五)彼の評伝は一冊もない。オウ・ヘンリイ等《ら》に比べると、此処《ここ》でも彼は薄倖《はくかう》である。彼の事を多少知りたい人は、ケムブリツヂ版の History of American Literature 第二版の三八六―七頁、或は Cooper 著 Some American Story Tellers のビイアス論を見るが好《よ》い。前に書くのを忘れたが、年代は一八三八―一九一四? である。日本訳は一つも見えない。紹介もこれが最初であらう。(二月二日)

     むし

 私《わたし》は「龍」と云ふ小説を書いた時、「虫の垂衣《たれぎぬ》をした女が一人《ひとり》、建札《たてふだ》の前に立つてゐる」と書いた。その後《のち》或人の注意によると、虫の垂衣《たれぎぬ》が行はれたのは、鎌倉時代以後ださうである。その証拠には源氏の初瀬詣《はつせまうで》の条《くだり》にも、虫の垂衣《たれぎぬ》の事は見えぬさうである。私はその人の注意に感謝した。が、私が虫の垂衣|云々《うんぬん》の事を書いたのは、「信貴山縁起《しぎさんえんぎ》」「粉河寺縁起《こかはでらえんぎ》」なぞの画巻物《ゑまきもの》によつてゐたのである。だからさう云ふ注意を受けても、剛情《がうじやう》に自説を改めなかつた。その後《のち》何かの次手《ついで》から、宮本勢助《みやもとせいすけ》氏にこの事を話すと、虫の垂衣は今昔物語《こんじやくものがたり》にも出てゐると云ふ事を教へられた。それから早速《さつそく》今昔を見ると、本朝《ほんてう》の部|巻六《まきのろく》、従鎮西上人依観音助遁賊難持命語《ちいぜいよりのぼるのひとくわんのんのたすけによりてぞくなんをのがれいのちをぢするものがたり》の中《うち》に、「転《うた》て思《おぼ》すらむ。然れども昼牟子[#「牟子」に白丸傍点]を風の吹き開きたりつるより見奉るに、更に物《もの》|不[#レ]思《おぼえず》罪《つみ》免《ゆる》し給へ云々《うんぬん》」とある。私は心の舒《の》びるのを感じた。同時に自説は曲げずにゐても、矢張《やはり》文献に証拠のないのが、今までは多少寂しかつたのを知つた。(二月三日)

     蕗

 坂になった路の土が、砥《と》の粉《こ》のやうに乾いてゐる。寂しい山間の町だから、路には石塊《いしころ》も少くない。両側《りやうがは》には古いこけら葺《ぶき》の家が、ひつそりと日光を浴びてゐる。僕等|二人《ふたり》の中学生は、その路をせかせか上《のぼ》つて行つた。すると赤ん坊を背負《せお》つた少女が一人、濃い影を足もとに落しながら、静に坂を下《くだ》つて来た。少女は袖《そで》のまくれた手に、茎の長い蕗《ふき》をかざしてゐる。何《なん》の為めかと思つたら、それは真夏の日光が、すやすや寝入つた赤ん坊の顔へ、当らぬ為の蕗であつた。僕等二人はすれ違ふ時に、そつと微笑を交換した。が、少女はそれも知らないやうに、やはり静に通りすぎた。かすかに頬《ほほ》が日に焼けた、大様《おほやう》の顔だちの少女である。その顔が未《いまだ》にどうかすると、はつきり記憶に浮ぶ事がある。里見《さとみ》君の所謂《いはゆる》一目惚《ひとめぼ》れとは、こんな心もちを云ふのかも知れない。(二月十日)
[#地から1字上げ](大正十年)



底本:「筑摩全集類聚 芥川
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