ノ、古ぼけた表紙を曝《さら》してゐる。托氏《とし》宗教小説は、西暦千九百有七年、支那では光緒《くわうしよ》三十三年、香港《ホンコン》の礼賢《れいけん》会(Rhenish Missionary Society)が、剞※[#「厥+りっとう」、第4水準2−3−30]《きけつ》に付した本である。訳者は独逸《ドイツ》の宣教師 〔Gena:hr〕 と云ふ人である。但し翻訳に用ひた本は、Nisbet Bain の英訳だと云ふ、内容は名高い主奴《しゆど》論以下、十二篇の作品を集めてゐる。この本は勿論珍書ではあるまい。文求堂《ぶんきうだう》に頼みさへすれば、すぐに取つてくれるかも知れぬ。が、表紙を開けた所に、原著者|托爾斯泰《トルストイ》の写真があるのは、何《なん》となしに愉快である。好《い》い加減に頁《ペエジ》を繰つて見れば、牧色《ムジイク》、加夫単《カフタン》、沽未士《クミス》なぞと云ふ、西洋語の音訳が出て来るのも、僕にはやはり物珍しい。こんな翻訳が上梓《じやうし》された事は原著者|托氏《とし》も知つてゐたであらうか。香港《ホンコン》上海《シヤンハイ》の支那人の中には、偶然この本を読んだ為めに、生涯|托氏《とし》を師と仰いだ、若干《じやくかん》の青年があつたかも知れぬ。托氏はさう云ふ南方の青年から、遙《はるか》に敬愛を表すべき手紙を受け取りはしなかつたであらうか。私《わたし》は托氏宗教小説を前に、この文章を書きながら、そんな空想を逞《たくま》しくした。托氏とは伯爵トルストイである。(一月二十八日)
「西洋の民は自由を失つた。恢復の望みは殆《ほとん》ど見えない。東洋の民はこの自由を恢復すべき使命がある。」これは次手《ついで》に孫引きにしたトルストイの書簡の一節である。(一月三十日)

     印税

 Jules Sandeau のいとこが Palais Royal のカツフエへ行つてゐると、出版|書肆《しよし》のシヤルパンテイエが、バルザツクと印税の相談をしてゐた。その後《のち》彼等が忘れて行つた紙を見たら、無暗《むやみ》に沢山《たくさん》の数字が書いてあつた。サンドオがバルザツクに会つた時、この数字の意味を問ひ訊《ただ》すと、それは著者が十万部売切れた場合、著者の手に渡るべき印税の額だつたと云ふ。当時バルザツクが定《き》めた印税は、オクタヴオ版三フラン半の本一冊につき、定価の一割を支払ふのだつた。して見ればまづ日本の作家が、現在取つてゐる印税と大差がなかつた訣《わけ》である。が、これがバルザツクがユウジエニエ・グランデエを書いた時分だから、千八百三十二年か三年頃の話である。まあ印税も日本では、西洋よりざつと百年ばかり遅れてゐると思へば好《よ》い。原稿成金なぞと云つても、日本では当分小説家は、貧乏に堪へねばならぬやうである。(一月三十日)

     日米関係

 日米関係と云つた所が、外交問題を論ずるのではない。文壇のみに存在する日米関係を云ひたいのである。日本に学ばれる外国語の中では、英吉利《イギリス》語程範囲の広いものはない。だから日本の文士たちも、大抵《たいてい》は英吉利語に手依《たよ》つてゐる。所が英吉利なり亜米利加《アメリカ》なり、本来の英吉利語文学は、シヨオとかワイルドとか云ふ以外に、余り日本では流行しない。やはり読まれるのは大陸文学である。然るに英吉利語訳の大陸文学は、亜米利加向きのものが多い。何故《なぜ》と云へばホイツトマン以後、芸術的に荒蕪《くわうぶ》な亜米利加は、他国に天才を求めるからである。その関係上日本の文壇は、さ程|著《いちじる》しくないにしても、近年は亜米利加の流行に、影響される形がないでもない。イバネスの名前が聞え出したのは、この実例の一つである。(僕が高等学校の生徒だつた頃は、あの「大寺院の影」の外《ほか》に、英吉利語訳のイバネスは何処《どこ》を探しても見当らなかつた。)向う河岸《がし》の火の手が静まつたら、今度はパピニなぞの伊太利《イタリイ》文学が、日本にも紹介され出すかも知れぬ。これは大陸文学ではないが、以前文壇の一角に、愛蘭土《アイルランド》文学が持《も》て囃《はや》されたのも、火の元は亜米利加にあつたやうだ。かう云ふ日米関係は、英吉利語文学が流行しないだけに存外《ぞんぐわい》見落され勝ちのやうである。偶《たまたま》丸善へ行つて見たら、イバネス、ブレスト・ガナ、デ・アラルコン、バロハなぞの西班牙《スペイン》小説が沢山《たくさん》並べてあつた為め、こんな事を記《しる》して置く気になつた。(二月一日)

     Ambroso Bierce

 日米関係を論じた次手《ついで》に、亜米利加《アメリカ》の作家を一人《ひとり》挙げよう。アムブロオズ・ビイアスは毛色の変つた作家である。(一)短篇小説を組み立て
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