ツの自己の分裂を感じない人間であつた。不思議にもこの二つの自己を同時に生きる人間であつた。彼が古今《ここん》に独歩する所以《ゆゑん》は、かう云ふ壮厳な矛盾《むじゆん》の中にある。Sainte−Beuve のモリエエル論を読んでゐたら、こんな事を書いた一節があつた。私《わたし》も私自身の中《うち》に、冷酷な自己の住む事を感ずる。この嘲魔《てうま》を却《しりぞ》ける事は、私の顔が変へられないやうに、私自身には如何《いかん》とも出来ぬ。もし年をとると共に、嘲魔のみが力を加へれば、私も亦《また》メリメエのやうに、「私の友人のなにがしがかう云ふ話をして聞かせた」なぞと、書き始める事にも倦《う》みさうである。殊に虚無の遺伝がある東洋人の私には容易かも知れぬ。L'Avare や 〔E'cole des Femmes〕 を書いたモリエエルは、比類の少い幸福者《かうふくしや》である。が、奸妻《かんさい》に悩まされ、病肺《びやうはい》に苦しまされ、作者と俳優と劇場監督と三役《みやく》の繁務に追はれながら、しかも猶《なほ》この嘲魔の毒手に、陥らなかつたモリエエルは、愈《いよいよ》羨望《せんばう》に価すべき比類の少い幸福者である。(一月十四日)
池西言水
「言ひ難きを言ふは老練の上の事なれど、そは多く俗|事物《じぶつ》を詠じて、雅《が》ならしむる者のみ。其事物|如何《いか》に雅致《がち》ある者なりとも、十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめん事は、殆《ほとん》ど為《な》し得べからざる者なれば、古来の俳人も皆之を試みざりしに似たり。然れども一二此種の句なくして可ならんや。池西言水《いけにしごんすゐ》は実に其作者なり。」これは正岡子規《まさをかしき》の言葉である。(俳諧大要。一五六頁)子規《しき》はその後《のち》に実例として、言水の句二句を掲げてゐる。それは「姨《をば》捨てん湯婆《たんぽ》に燗《かん》せ星月夜」と「黒塚《くろづか》や局女《つぼねをんな》のわく火鉢」との二句である。自分は言水のこれらの句が、「十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめ」たとするには、何《なん》の苦情も持つて居らぬ。しかしこの意味では蕪村《ぶそん》や召波《せうは》も、「十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめ」てはゐないか。「御手打《おてうち》の夫婦なりしを衣更《ころもが》へ」や「いねかしの男うれたき砧《きぬた》かな」も、やはり複雑な内容を十七字の形式につづめてはゐないか。しかも「燗《かん》せ」や「わく」と云ふ言葉使ひが耳立たないだけに、一層成功してはゐないか。して見れば子規が評した言葉は、言水にも確《たしか》に当《あ》て嵌《は》まるが、言水の特色を云ひ尽すには、余りに広すぎる憾《うら》みはないか。かう自分は思ふのである。では言水の特色は何かと云へば、それは彼が十七字の内に、万人《ばんにん》が知らぬ一種の鬼気《きき》を盛《も》りこんだ手際《てぎは》にあると思ふ。子規が掲げた二句を見ても、すぐに自分を動かすのは、その中に漂《ただよ》ふ無気味《ぶきみ》さである。試《こころみ》に言水句集を開けば、この類の句は外《ほか》にも多い。
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御忌《ぎよき》の鐘皿割る罪や暁《あけ》の雲
つま猫の胸の火や行《ゆ》く潦《にはたづみ》
夜桜に怪しやひとり須磨《すま》の蜑《あま》
蚊柱《かばしら》の礎《いしずゑ》となる捨子《すてこ》かな
人魂《ひとだま》は消えて梢《こずゑ》の燈籠《とうろ》かな
あさましや虫鳴く中に尼ひとり
火の影や人にて凄き網代守《あじろもり》
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句の佳否《かひ》に関《かかは》らず、これらの句が与へる感じは、蕪村《ぶそん》にもなければ召波《せうは》にもない。元禄《げんろく》でも言水《げんすゐ》唯|一人《ひとり》である。自分は言水の作品中、必《かならず》しもかう云ふ鬼趣《きしゆ》を得た句が、最も神妙なものだとは云はぬ。が、言水が他の大家《たいか》と特に趣を異にするのは、此処《ここ》にあると云はざるを得ないのである。言水通称は八郎兵衛《はちろべゑ》、紫藤軒《しとうけん》と号した。享保《きやうはう》四年歿。行年《ぎやうねん》は七十三である。(一月十五日)
托氏《とし》宗教小説
今日《けふ》本郷《ほんがう》通りを歩いてゐたら、ふと托氏《とし》宗教小説と云う本を見つけた。価《あたひ》を尋ねれば十五銭だと云ふ。物質生活のミニマムに生きてゐる僕は、この間《あひだ》渦福《うづふく》の鉢を買はうと思つたら、十八円五十銭と云ふのに辟易《へきえき》した。が、十五銭の本|位《くらゐ》は、仕合せと買へぬ身分でもない。僕は早速《さつそく》三箇の白銅の代りに、薄つぺらな本を受け取つた。それが今僕の机の上
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