出来たでございましょう。しかし勿論それは不可能な事でございます。ただ、確かに覚えているのは、その時私がはげしい眩暈《めまい》を感じたと云う事よりほかに、全く何もございません。私はそのまま、そこに倒れて、失神してしまったのでございます。その物音に驚いて、妻が茶の間から駈けつけて来た時には、あの呪《のろ》うべき幻影ももう消えていたのでございましょう。妻は私をその書斎へ寝かして、早速|氷嚢《ひょうのう》を額へのせてくれました。
 私が正気にかえったのは、それから三十分ばかり後《のち》の事でございます。妻は、私が失神から醒めたのを見ると、突然声を立てて泣き出しました。この頃の私の言動が、どうも妻の腑《ふ》に落ちないと申すのでございます。「何かあなたは疑っていらっしゃるのでしょう。そうでしょう。それなら、何故《なぜ》そうと打明けてくださらないのです。」妻はこう申して、私を責めました。世間が、妻の貞操《ていそう》を疑っていると云う事は、閣下も御承知の筈でございます。それはその時すでに、私の耳へはいって居りました。恐らくは妻もまた、誰からと云う事なく、この恐しい噂を聞いていたのでございましょう。私は妻の語《ことば》が、私もそう云う疑を持ってはいはしないかと云う掛念《けねん》で、ふるえているのを感じました。妻は、私のあらゆる異常な言動が、皆その疑から来たものと思っているらしいのでございます。この上私が沈黙を守るとすればそれは徒《いたずら》に妻を窘《くるし》める事になるよりほかはございません。そこで、私は、額にのせた氷嚢が落ちないように、静に顔を妻の方へ向けながら、低い声で「許してくれ。己《おれ》はお前に隠して置いた事がある。」と申しました。そうしてそれから、第二の私が三度まで私の眼を遮《さえぎ》った話を、出来るだけ詳しく話しました。「世間の噂も、己の考えでは、誰か第二の己が第二のお前と一しょにいるのを見て、それから捏造《ねつぞう》したものらしい。己は固くお前を信じている。その代りお前も己を信じてくれ。」私はその後で、こう力を入れてつけ加えました。しかし、妻は、弱い女の身として、世間の疑の的になると云う事が、如何《いか》にも切《せつ》ないのでございましょう。あるいはまた、ドッペルゲンゲルと云う現象が、その疑を解くためには余りに異常すぎたせいもあるのに相違ございません。妻は私の枕もとで
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