道祖問答
芥川龍之介

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)天王寺《てんのうじ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)念仏読経|四威儀《しいぎ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正五年十二月十三日)
−−

 天王寺《てんのうじ》の別当《べっとう》、道命阿闍梨《どうみょうあざり》は、ひとりそっと床をぬけ出すと、経机《きょうづくえ》の前へにじりよって、その上に乗っている法華経《ほけきょう》八の巻《まき》を灯《あかり》の下に繰りひろげた。
 切り燈台の火は、花のような丁字《ちょうじ》をむすびながら、明《あかる》く螺鈿《らでん》の経机を照らしている。耳にはいるのは几帳《きちょう》の向うに横になっている和泉式部《いずみしきぶ》の寝息であろう。春の夜の曹司《ぞうし》はただしんかんと更け渡って、そのほかには鼠《ねずみ》の啼く声さえも聞えない。
 阿闍梨《あざり》は、白地の錦の縁《ふち》をとった円座《わらふだ》の上に座をしめながら、式部の眼のさめるのを憚《はばか》るように、中音《ちゅうおん》で静かに法華経を誦《ず》しはじめた。
 これが、この男の日頃からの習慣である。身は、傅《ふ》の大納言《だいなごん》藤原道綱《ふじわらみちつな》の子と生れて、天台座主慈恵《てんだいざすじえ》大僧正の弟子《でし》となったが、三業《さんごう》も修《しゅう》せず、五戒《ごかい》も持した事はない。いや寧《むし》ろ「天《あめ》が下《した》のいろごのみ」と云う、Dandy の階級に属するような、生活さえもつづけている。が、不思議にも、そう云う生活のあい間には、必ずひとり法華経を読誦《どくじゅ》する。しかも阿闍梨自身は、少しもそれを矛盾《むじゅん》だと思っていないらしい。
 現に今日《きょう》、和泉式部を訪れたのも、験者《げんざ》として来たのでは、勿論ない。ただこの好女《こうじょ》の数の多い情人の一人として春宵《しゅんしょう》のつれづれを慰めるために忍んで来た。――それが、まだ一番鶏《いちばんどり》も鳴かないのに、こっそり床をぬけ出して、酒臭い唇《くちびる》に、一切衆生《いっさいしゅじょう》皆成仏道《かいじょうぶつどう》の妙経を読誦しようとするのである。……
 阿闍梨は褊袗《へんさん》の襟を正して、専念に経を読んだ。
 それが、どのくらいつづいたかわからない。が、暫くすると、切り燈台の火が、いつの間にか、少しずつ暗くなり出したのに気がついた。焔《ほのお》の先が青くなって、光がだんだん薄れて来る。と思うと、丁字《ちょうじ》のまわりが煤《すす》のたまったように黒み出して、追々に火の形が糸ほどに細ってしまう。阿闍梨は、気にして二三度燈心をかき立てた。けれども、暗くなる事は、依然として変りがない。
 そればかりか、ふと気がつくと、灯《あかり》の暗くなるのに従って、切り燈台の向うの空気が一所《ひとところ》だけ濃くなって、それが次第に、影のような人の形になって来る。阿闍梨は、思わず読経《どきょう》の声を断った。――
「誰じゃ。」
 すると、声に応じて、その影からぼやけた返事が伝って来た。
「おゆるされ。これは、五条西の洞院《とういん》のほとりに住む翁《おきな》でござる。」
 阿闍梨《あざり》は、身を稍後《ややあと》へすべらせながら眸《ひとみ》を凝《こ》らして、じっとその翁を見た。翁は経机《きょうづくえ》の向うに白の水干《すいかん》の袖を掻き合せて、仔細《しさい》らしく坐っている。朦朧《もうろう》とはしながらも、烏帽子《えぼし》の紐を長くむすび下げた物ごしは満更《まんざら》狐狸《こり》の変化《へんげ》とも思われない。殊に黄色い紙を張った扇を持っているのが、灯《あかり》の暗いにも関らず気高《けだか》くはっきりと眺められた。
「翁《おきな》とは何の翁じゃ。」
「おう、翁とばかりでは御合点《ごがてん》まいるまい。ありようは、五条の道祖神《さえのかみ》でござる。」
「その道祖神が、何としてこれへ見えた。」
「御経を承《うけたま》わり申した嬉しさに、せめて一語《ひとこと》なりとも御礼申そうとて、罷《まか》り出《いで》たのでござる。」
 阿闍梨は不審らしく眉をよせた。
「道命《どうみょう》が法華経を読み奉るのは、常の事じゃ。今宵に限った事ではない。」
「されば。」
 道祖神《さえのかみ》は、ちょいと語を切って、種々《しょうしょう》たる黄髪《こうはつ》の頭を、懶《ものう》げに傾けながら不相変《あいかわらず》呟くような、かすかな声で、
「清くて読み奉らるる時には、上《かみ》は梵天帝釈《ぼんてんたいしゃく》より下《しも》は恒河沙《こうがしゃ》の諸仏菩薩まで、悉《ことごと》く聴聞《ちょうもん》せらるるものでご
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング