の旗《はた》を片手に、日の丸の扇を打ち振り打ち振り、犬猿雉《いぬさるきじ》の三匹に号令した。犬猿雉の三匹は仲の好《い》い家来《けらい》ではなかったかも知れない。が、饑《う》えた動物ほど、忠勇|無双《むそう》の兵卒の資格を具えているものはないはずである。彼等は皆あらしのように、逃げまわる鬼を追いまわした。犬はただ一噛《ひとか》みに鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭い嘴《くちばし》に鬼の子供を突き殺した。猿も――猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺《しめころ》す前に、必ず凌辱《りょうじょく》を恣《ほしいまま》にした。……
あらゆる罪悪の行われた後《のち》、とうとう鬼の酋長《しゅうちょう》は、命をとりとめた数人の鬼と、桃太郎の前に降参《こうさん》した。桃太郎の得意は思うべしである。鬼が島はもう昨日《きのう》のように、極楽鳥《ごくらくちょう》の囀《さえず》る楽土ではない。椰子《やし》の林は至るところに鬼の死骸《しがい》を撒《ま》き散らしている。桃太郎はやはり旗を片手に、三匹の家来《けらい》を従えたまま、平蜘蛛《ひらぐも》のようになった鬼の酋長へ厳《おごそ》かにこういい渡した。
「では格別の憐愍《れんびん》により、貴様《きさま》たちの命は赦《ゆる》してやる。その代りに鬼が島の宝物《たからもの》は一つも残らず献上《けんじょう》するのだぞ。」
「はい、献上致します。」
「なおそのほかに貴様の子供を人質《ひとじち》のためにさし出すのだぞ。」
「それも承知致しました。」
鬼の酋長はもう一度|額《ひたい》を土へすりつけた後、恐る恐る桃太郎へ質問した。
「わたくしどもはあなた様に何か無礼《ぶれい》でも致したため、御征伐《ごせいばつ》を受けたことと存じて居ります。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと合点《がてん》が参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお明《あか》し下さる訣《わけ》には参りますまいか?」
桃太郎は悠然《ゆうぜん》と頷《うなず》いた。
「日本一《にっぽんいち》[#ルビの「にっぽんいち」は底本では「にっぼんいち」]の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し抱《かか》えた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」
「ではそのお三《さん》かたをお召し抱えなすったのはどういう訣《わけ》でございますか?」
「それはもとより鬼が島を征伐したいと志した故、黍団子《きびだんご》をやっても召し抱えたのだ。――どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たちも皆殺してしまうぞ。」
鬼の酋長は驚いたように、三尺ほど後《うしろ》へ飛び下《さが》ると、いよいよまた丁寧《ていねい》にお時儀《じぎ》をした。
五
日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹と、人質に取った鬼の子供に宝物の車を引かせながら、得々《とくとく》と故郷へ凱旋《がいせん》した。――これだけはもう日本中《にほんじゅう》の子供のとうに知っている話である。しかし桃太郎は必ずしも幸福に一生を送った訣《わけ》ではない。鬼の子供は一人前《いちにんまえ》になると番人の雉を噛《か》み殺した上、たちまち鬼が島へ逐電《ちくでん》した。のみならず鬼が島に生き残った鬼は時々海を渡って来ては、桃太郎の屋形《やかた》へ火をつけたり、桃太郎の寝首《ねくび》をかこうとした。何でも猿の殺されたのは人違いだったらしいという噂《うわさ》である。桃太郎はこういう重《かさ》ね重《がさ》ねの不幸に嘆息《たんそく》を洩《も》らさずにはいられなかった。
「どうも鬼というものの執念《しゅうねん》の深いのには困ったものだ。」
「やっと命を助けて頂いた御主人の大恩《だいおん》さえ忘れるとは怪《け》しからぬ奴等でございます。」
犬も桃太郎の渋面《じゅうめん》を見ると、口惜《くや》しそうにいつも唸《うな》ったものである。
その間も寂しい鬼が島の磯《いそ》には、美しい熱帯の月明《つきあか》りを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子《やし》の実に爆弾を仕こんでいた。優《やさ》しい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに茶碗《ちゃわん》ほどの目の玉を赫《かがや》かせながら。……
六
人間の知らない山の奥に雲霧《くもきり》を破った桃の木は今日《こんにち》もなお昔のように、累々《るいるい》と無数の実《み》をつけている。勿論桃太郎を孕《はら》んでいた実だけはとうに谷川を流れ去ってしまった。しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。あの大きい八咫鴉《やたがらす》は今度はいつこの木の梢《こずえ》へもう一度姿を露《あら》わすであろう? ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。……
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