東京小品
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)無暗《むやみ》に
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)年始|旁々《かたがた》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にほひ》
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鏡
自分は無暗《むやみ》に書物ばかり積んである書斎の中に蹲《うづくま》つて、寂しい春の松の内を甚《はなはだ》だらしなく消光してゐた。本をひろげて見たり、好《い》い加減な文章を書いて見たり、それにも飽きると出たらめな俳句を作つて見たり――要するにまあ太平の逸民《いつみん》らしく、のんべんだらりと日を暮してゐたのである。すると或日久しぶりに、よその奥さんが子供をつれて、年始|旁々《かたがた》遊びに来た。この奥さんは昔から若くつてゐたいと云ふ事を、口癖のやうにしてゐる人だつた。だからつれてゐる女の子がもう五つになると云ふにも関《かかは》らず、まだ娘の時分の美しさを昨日《きのふ》のやうに保存してゐた。
その日自分の書斎には、梅の花が活《い》けてあつた。そこで我々は梅の話をした。が、千枝《ちえ》ちやんと云ふその女の子は、この間中《あひだぢう》書斎の額《がく》や掛物《かけもの》を上眼《うはめ》でぢろぢろ眺めながら、退屈さうに側に坐つてゐた。
暫《しばら》くして自分は千枝ちやんが可哀《かはい》さうになつたから、奥さんに「もうあつちへ行つて、母とでも話してお出でなさい」と云つた。母なら奥さんと話しながら、しかも子供を退屈させない丈《だけ》の手腕があると思つたからである。すると奥さんは懐《ふところ》から鏡《かがみ》を出して、それを千枝ちやんに渡しながら「この子はかうやつて置きさへすれば、決して退屈しないんです」と云つた。
何故《なぜ》だらうと思つて聞いて見ると、この奥さんの良人《をつと》が逗子《づし》の別荘に病《やまい》を養つてゐた時分、奥さんは千枝《ちえ》ちやんをつれて、一週間に二三度|宛《づつ》東京逗子間を往復したが、千枝ちやんは汽車の中でその度に退屈し切つてしまふ。のみならず、その退屈を紛《まぎ》らしたい一心で、勝手な悪戯《いたづら》をして仕方がない。現に或時はよその御隠居《ごい
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