んきよ》様をつかまへて「あなた、仏蘭西《フランス》語を知つていらつしやる」などととんでもない事を尋ねたりした。そこで奥さんも絵本を渡したり、ハモニカをあてがつたり、いろいろ退屈させない心配をしたが、とうとうしまひに懐鏡《ふところかがみ》を持たせて置くと、意外にも道中《だうちう》おとなしく坐つてゐる事実を発見した。千枝ちやんはその鏡を覗《のぞ》きこんで、白粉《おしろい》を直したり、髪を掻《か》いたり、或は又わざと顔をしかめて見り、鏡の中の自分を相手にして、何時《いつ》までも遊んでゐるからである。
 奥さんはかう鏡を渡した因縁《いんねん》を説明して、「やつぱり子供ですわね。鏡さへ見てゐれば、それでもう何も忘れてゐられるんですから。」とつけ加へた。
 自分は刹那《せつな》の間《あひだ》、この奥さんに軽い悪意を働かせた。さうして思はず笑ひながら、こんな事を云つて冷評《ひやか》した。
「あなただつて鏡さへ見てゐれば、それでもう何も忘れてゐられるんぢやありませんか。千枝《ちえ》ちやんと違ふのは、退屈なのが汽車の中と世の中だけの差別ですよ。」

     下足札

 これも或松の内の事である。Hと云ふ若い亜米利加《アメリカ》人が自分の家へ遊びに来て、いきなりポケツトから下足札《げそくふだ》を一枚出すと、「何《なん》だかわかるか」と自分に問ひかけた。下足札はまだ木の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にほひ》がする程新しい板の面《おもて》に、俗悪な太い字で「雪の十七番」と書いてある。自分はその書体を見ると、何故《なぜ》か両国《りやうごく》の橋の袂《たもと》へ店を出してゐる甘酒屋《あまざけや》の赤い荷を思ひ出した。が、元より「雪の十七番」の因縁《いんねん》なぞは心得てゐる筈がなかつた。だからこの蒟蒻問答《こんにやくもんだふ》の雲水《うんすゐ》めいた相手の顔を眺めながら、「わからないよ」と簡単な返事をした。するとHは鼻|眼鏡《めがね》の後《うしろ》から妙な瞬《またた》きを一つ送りながら、急ににやにや笑ひ出して、
「これはね。或芸者の記念品《スヴニイル》なんだ。」
「へへえ、記念品《スヴニイル》にしちや又、妙なものを貰つたもんだな。」
 自分たちの間《あひだ》には、正月の膳《ぜん》が並んでゐた。Hはちよいと顔をしかめながら、屠蘇《とそ》の盃《さかづき》へ口をあてて、それから吸
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