物の椀《わん》を持つた儘、※[#「女+尾」、第3水準1−15−81]々《びび》としてその下足札の因縁を辯じ出した。――
 何《なん》でもそれによると、Hの教師をしてゐる学校が昨日《きのふ》赤坂《あかさか》の或御茶屋で新年会を催《もよほ》したのださうである。日本に来て間《ま》もないHは、まだ芸者に愛嬌《あいけう》を売るだけの修業も積んでゐなかつたから、唯出て来る料理を片つぱしから平《たひら》げて、差される猪口《ちよく》を片つぱしから飲み干してゐた。するとそこにゐた十人ばかりの芸者の中に、始終彼の方《はう》へ秋波《しうは》を送る女が一人《ひとり》あつた。日本の女は踝《くるぶし》から下を除いて悉《ことごと》く美しいと云ふHの事だから、勿論この芸者も彼の眼には美人として映じたのに相違ない。そこで彼も牛飲馬食《ぎういんばしよく》する傍《かたはら》には時々そつとその女の方を眺めてゐた。
 しかし日本語の通じないHにも、日本酒は遠慮なく作用する。彼は一時間ばかりたつ中《うち》に、文字《もじ》通り泥酔《でいすゐ》した。その結果、殆《ほとん》ど座に堪へられなくなつたから、ふらふらする足を踏みしめてそつと障子《しやうじ》の外へ出た。外には閑静な中庭が石燈籠《いしどうろう》に火を入れて、ひつそりと竹の暗をつくつてゐる。Hは朦朧《もうろう》たる酔眼《すゐがん》にこの景色を眺めると、如何《いか》にも日本らしい好《い》い心もちに浸《ひた》る事が出来た。が、この日本情調が彼のエキゾテイシズムを満足させたのは、ほんの一瞬間の事だつたらしい。何故《なぜ》と云ふと彼が廊下《らうか》へ出るか出ないのに、後《あと》を追つてするすると裾を引いて来た芸者の一人《ひとり》が突然彼の頸《くび》へ抱《だ》きついたからである。さうして彼の酒臭い脣《くちびる》へ潔《いさぎよ》い接吻をした。勿論《もちろん》それはさつきから、彼に秋波を送つてゐる芸者だつた。彼は大《おほい》に嬉しかつたから、両手でしつかりその芸者を抱いた。
 ここまでは万事が頗《すこぶ》る理想的に発展したが、遺憾ながら抱《だ》くと同時に、急に胸がむかついて来て、Hはその儘その廊下へ甚だ尾籠《びろう》ながら嘔吐《へど》を吐いてしまつた。しかしその瞬間に彼の鼓膜《こまく》は「私はX子と云ふのよ。今度御独りでいらしつた時、呼んで頂戴」と云ふ宛転《ゑんてん》たる嬌
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