から覗《のぞ》いて見ると、榾明《ほたあか》りに照された壁の上に大きい影が一つ映《うつ》っていた。しかし影の持主は覗《のぞ》いている角度の関係上、どうしても見ることは出来なかった。ただその大きい目前《もくぜん》の影は疑う余地のない坊主頭《ぼうずあたま》だった。のみならずしばらく聞き澄ましていても、この佗《わび》しい堂守《どうもり》のほかに人のいるけはいは聞えなかった。伝吉はまず雨落《あまお》ちの石へそっと菅笠《すげがさ》を仰向《あおむ》けに載せた。それから静かに旅合羽《たびがっぱ》を脱ぎ、二つに畳《たた》んだのを笠の中に入れた。笠も合羽もいつの間《ま》にかしっとりと夜露《よつゆ》にしめっていた。すると、――急に便通を感じた。伝吉はやむを得ず藪《やぶ》かげへはいり、漆《うるし》の木の下《した》へ用を足した。この一条を田代玄甫《たしろげんぽ》は「胆《きも》の太きこそ恐ろしけれ」と称《たた》え、小泉孤松《こいずみこしょう》は「伝吉の沈勇、極まれり矣《い》」と嘆じている。
 身仕度《みじたく》を整えた伝吉は長脇差《ながわきざし》を引き抜いた後《のち》、がらりと地蔵堂の門障子《かどしょうじ》をあけた。囲炉裡《いろり》の前には坊主が一人、楽々《らくらく》と足を投げ出していた。坊主はこちらへ背を見せたまま、「誰じゃい?」とただ声をかけた。伝吉はちょいと拍子抜《ひょうしぬ》けを感じた。第一にこう云う坊主の態度は仇《あだ》を持つ人とも思われなかった。第二にその後ろ姿は伝吉の心に描《えが》いていたよりもずっと憔悴《しょうすい》を極めていた。伝吉はほとんど一瞬間人違いではないかと云う疑いさえ抱いた。しかしもう今となってはためらっていられないのは勿論だった。
 伝吉は後《うし》ろ手に障子をしめ、「服部平四郎《はっとりへいしろう》」と声をかけた。坊主はそれでも驚きもせずに、不審《ふしん》そうに客を振り返った。が、白刃《しらは》の光りを見ると、咄嵯《とっさ》に法衣《ころも》の膝《ひざ》を起した。榾火《ほたび》に照らされた坊主の顔は骨と皮ばかりになった老人だった。しかし伝吉はその顔のどこかにはっきりと服部平四郎を感じた。
「誰じゃい、おぬしは?」
「伝三の倅《せがれ》の伝吉だ。怨《うら》みはおぬしの身に覚えがあるだろう。」
 浄観《じょうかん》は大きい目をしたまま、黙然《もくねん》とただ伝吉を見上げた。その顔に現れた感情は何とも云われない恐怖《きょうふ》だった。伝吉は刀を構えながら、冷やかにこの恐怖を享楽した。
「さあ、その伝三の仇《あだ》を返しに来たのだ。さっさと立ち上って勝負をしろ。」
「何、立ち上れじゃ?」
 浄観は見る見る微笑《びしょう》を浮べた。伝吉はこの微笑の中に何か妙に凄《すご》いものを感じた。
「おぬしは己《おれ》が昔のように立ち上れると思うているのか? 己は居《い》ざりじゃ。腰抜けじゃ。」
 伝吉は思わず一足《ひとあし》すさった。いつか彼の構えた刀はぶるぶる切先《きっさき》を震《ふる》わしていた。浄観はその容子《ようす》を見やったなり、歯の抜けた口をあからさまにもう一度こうつけ加えた。
「立ち居さえ自由にはならぬ体じゃ。」
「嘘《うそ》をつけ。嘘を……」
 伝吉は必死に罵《ののし》りかけた。が、浄観は反対に少しずつ冷静に返り出した。
「何が嘘じゃ? この村のものにも聞いて見るが好《よ》い。己は去年の大患《おおわずら》いから腰ぬけになってしもうたのじゃ。じゃが、――」
 浄観はちょいと言葉を切ると、まともに伝吉の目の中を見つめた。
「じゃが己《おれ》は卑怯《ひきょう》なことは云わぬ。いかにもおぬしの云う通り、おぬしの父親《てておや》は己の手にかけた。この腰抜けでも打つと云うなら、立派《りっぱ》に己は打たれてやる。」
 伝吉は短い沈黙の間《あいだ》にいろいろの感情の群《むら》がるのを感じた。嫌悪《けんお》、憐憫《れんびん》、侮蔑《ぶべつ》、恐怖、――そう云う感情の高低《こうてい》は徒《いたずら》に彼の太刀先《たちさき》を鈍《にぶ》らせる役に立つばかりだった。伝吉は浄観を睨《にら》んだぎり、打とうか打つまいかと逡巡《しゅんじゅん》していた。
「さあ、打て。」
 浄観はほとんど傲然《ごうぜん》と斜《ななめ》に伝吉へ肩を示した。その拍子《ひょうし》にふと伝吉は酒臭い浄観の息を感じた。と同時に昔の怒のむらむらと心に燃え上るのを感じた。それは父を見殺しにした彼自身に対する怒だった。理が非でも仇《あだ》を打たなければ消えることを知らない怒だった。伝吉は武者震《むしゃぶる》いをするが早いか、いきなり浄観を袈裟《けさ》がけに斬った。……
 伝吉の見事に仇を打った話はたちまち一郷《いちごう》の評判になった。公儀《こうぎ》も勿論この孝子には格別の咎《とが》めを加え
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