の利《き》いた旅籠屋《はたごや》である。(註四)伝吉は下男部屋に起臥《きが》しながら仇打《あだう》ちの工夫《くふう》を凝《こ》らしつづけた。この仇打の工夫についても、諸説のいずれが正しいかはしばらく疑問に附するほかはない。
(一)「旅硯」、「農家義人伝」等によれば、伝吉は仇の誰であるかを知っていたことになっている。しかし「伝吉物語」によれば、服部平四郎《はっとりへいしろう》の名を知るまでに「三|星霜《せいそう》を閲《けみ》し」たらしい。なおまた皆川蜩庵《みながわちょうあん》の書いた「木《こ》の葉《は》」の中の「伝吉がこと」も「数年を経たり」と断《ことわ》っている。
(二)「農家義人伝」、「本朝《ほんちょう》姑妄聴《こもうちょう》」(著者不明)等によれば、伝吉の剣法《けんぽう》を学んだ師匠は平井左門《ひらいさもん》と云う浪人《ろうにん》である。左門は長窪の子供たちに読書や習字を教えながら、請うものには北辰夢想流《ほくしんむそうりゅう》の剣法も教えていたらしい。けれども「伝吉物語」「旅硯」「木の葉」等によれば、伝吉は剣法を自得《じとく》したのである。「あるいは立ち木を讐《かたき》と呼び、あるいは岩を平四郎と名づけ」、一心に練磨《れんま》を積んだのである。
すると天保《てんぽう》十年頃意外にも服部平四郎は突然|往《ゆ》くえを晦《くら》ましてしまった。もっともこれは伝吉につけ狙《ねら》われていることを知ったからではない。ただあらゆる浮浪人のようにどこかへ姿を隠してしまったのである。伝吉は勿論|落胆《らくたん》した。一時は「神ほとけも讐《かたき》の上を守らせ給うか」とさえ歎息した。この上|仇《あだ》を返そうとすればまず旅に出なければならない。しかし当てもない旅に出るのは現在の伝吉には不可能である。伝吉は烈しい絶望の余り、だんだん遊蕩《ゆうとう》に染まり出した。「農家義人伝」はこの変化を「交《まじわり》を博徒《ばくと》に求む、蓋《けだ》し讐《かたき》の所在を知らんと欲する也」と説明している。これもまたあるいは一解釈かも知れない。
伝吉はたちまち枡屋《ますや》を逐《お》われ、唐丸《とうまる》の松《まつ》と称された博徒|松五郎《まつごろう》の乾児《こぶん》になった。爾来《じらい》ほとんど二十年ばかりは無頼《ぶらい》の生活を送っていたらしい。(註五)「木《こ》の葉《は》」はこの間《あいだ》に伝吉の枡屋の娘を誘拐《ゆうかい》したり、長窪《ながくぼ》の本陣《ほんじん》何某へ強請《ゆすり》に行ったりしたことを伝えている。これも他の諸書に載せてないのを見れば、軽々《けいけい》に真偽《しんぎ》を決することは出来ない。現に「農家義人伝」は「伝吉、一郷《いっきょう》の悪少《あくしょう》と共に屡《しばしば》横逆《おうげき》を行えりと云う。妄誕《もうたん》弁ずるに足らざる也。伝吉は父讐《ふしゅう》を復せんとするの孝子、豈《あに》、這般《しゃはん》の無状《ぶじょう》あらんや」と「木の葉」の記事を否定している。けれども伝吉はこの間も仇打ちの一念は忘れなかったのであろう。比較的伝吉に同情を持たない皆川蜩庵《みながわちょうあん》さえこう書いている。「伝吉は朋輩《ほうばい》どもには仇あることを云わず、仇あることを知りしものには自《みずか》らも仇の名など知らざるように装《よそお》いしとなり。深志《しんし》あるものの所作《しょさ》なるべし。」が、歳月は徒《いたず》らに去り、平四郎の往くえは不相変《あいかわらず》誰の耳にもはいらなかった。
すると安政《あんせい》六年の秋、伝吉はふと平四郎の倉井《くらい》村にいることを発見した。もっとも今度は昔のように両刀を手挟《たばさ》んでいたのではない。いつか髪《かみ》を落した後《のち》、倉井村の地蔵堂《じぞうどう》の堂守《どうもり》になっていたのである。伝吉は「冥助《みょうじょ》のかたじけなさ」を感じた。倉井村と云えば長窪から五里に足りない山村《さんそん》である。その上|笹山《ささやま》村に隣《とな》り合っているから、小径《こみち》も知らないのは一つもない。(地図参照)伝吉は現在平四郎の浄観《じょうかん》と云っているのも確かめた上、安政六年九月|七日《なのか》、菅笠《すげがさ》をかぶり、旅合羽《たびがっぱ》を着、相州無銘《そうしゅうむめい》の長脇差《ながわきざし》をさし、たった一人仇打ちの途《と》に上《のぼ》った。父の伝三の打たれた年からやっと二十三年目に本懐《ほんかい》を遂げようとするのである。
伝吉の倉井村へはいったのは戌《いぬ》の刻《こく》を少し過ぎた頃だった。これは邪魔《じゃま》のはいらないためにわざと夜を選んだからである。伝吉は夜寒《よさむ》の田舎道《いなかみち》を山のかげにある地蔵堂へ行った。窓障子《まどしょうじ》の破れ
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