《あいだ》に伝吉の枡屋の娘を誘拐《ゆうかい》したり、長窪《ながくぼ》の本陣《ほんじん》何某へ強請《ゆすり》に行ったりしたことを伝えている。これも他の諸書に載せてないのを見れば、軽々《けいけい》に真偽《しんぎ》を決することは出来ない。現に「農家義人伝」は「伝吉、一郷《いっきょう》の悪少《あくしょう》と共に屡《しばしば》横逆《おうげき》を行えりと云う。妄誕《もうたん》弁ずるに足らざる也。伝吉は父讐《ふしゅう》を復せんとするの孝子、豈《あに》、這般《しゃはん》の無状《ぶじょう》あらんや」と「木の葉」の記事を否定している。けれども伝吉はこの間も仇打ちの一念は忘れなかったのであろう。比較的伝吉に同情を持たない皆川蜩庵《みながわちょうあん》さえこう書いている。「伝吉は朋輩《ほうばい》どもには仇あることを云わず、仇あることを知りしものには自《みずか》らも仇の名など知らざるように装《よそお》いしとなり。深志《しんし》あるものの所作《しょさ》なるべし。」が、歳月は徒《いたず》らに去り、平四郎の往くえは不相変《あいかわらず》誰の耳にもはいらなかった。
 すると安政《あんせい》六年の秋、伝吉はふと平四郎の倉井《くらい》村にいることを発見した。もっとも今度は昔のように両刀を手挟《たばさ》んでいたのではない。いつか髪《かみ》を落した後《のち》、倉井村の地蔵堂《じぞうどう》の堂守《どうもり》になっていたのである。伝吉は「冥助《みょうじょ》のかたじけなさ」を感じた。倉井村と云えば長窪から五里に足りない山村《さんそん》である。その上|笹山《ささやま》村に隣《とな》り合っているから、小径《こみち》も知らないのは一つもない。(地図参照)伝吉は現在平四郎の浄観《じょうかん》と云っているのも確かめた上、安政六年九月|七日《なのか》、菅笠《すげがさ》をかぶり、旅合羽《たびがっぱ》を着、相州無銘《そうしゅうむめい》の長脇差《ながわきざし》をさし、たった一人仇打ちの途《と》に上《のぼ》った。父の伝三の打たれた年からやっと二十三年目に本懐《ほんかい》を遂げようとするのである。
 伝吉の倉井村へはいったのは戌《いぬ》の刻《こく》を少し過ぎた頃だった。これは邪魔《じゃま》のはいらないためにわざと夜を選んだからである。伝吉は夜寒《よさむ》の田舎道《いなかみち》を山のかげにある地蔵堂へ行った。窓障子《まどしょうじ》の破れ
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