87−71]陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報《むくい》には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠《ひすい》のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮《しらはす》の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御|下《おろ》しなさいました。

        二

 こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていた※[#「牛へん+建」、第3水準1−87−71]陀多《かんだた》でございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつく微《かすか》な嘆息《たんそく》ばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦《せめく》に疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊の※[#「牛へん+建」、第3水準1−87−71]陀多も、やはり血の池の血に咽《むせ》びながら、まるで死にかかった蛙《かわず》のように、ただもがいてばかり居りました。
 ところがある時の事でございます。何気《なにげ》なく※[#「牛へん+建」、第3水準1−87−71]陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛《くも》の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。※[#「牛へん+建」、第3水準1−87−71]陀多はこれを見ると、思わず手を拍《う》って喜びました。この糸に縋《すが》りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。
 こう思いましたから※[#「牛へん+建」、第3水準1
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング