に唯、脣ばかり動して居りましたが、やがて體中の筋が緩んだやうに、べたりと疊へ兩手をつくと、
「難有い仕合でございまする。」と、聞えるか聞えないかわからない程低い聲で、丁寧に御禮を申し上げました。これは大方自分の考へてゐた目ろみの恐ろしさが、大殿樣の御言葉につれてあり/\と目の前へ浮んで來たからでございませうか。私は一生の中に唯一度、この時だけは良秀が、氣の毒な人間に思はれました。
十六
それから二三日した夜の事でございます。大殿樣は御約束通り、良秀を御召しになつて、檳榔毛《びらうげ》の車の燒ける所を、目近く見せて御やりになりました。尤もこれは堀河の御邸であつた事ではございません。俗に雪解《ゆきげ》の御所と云ふ、昔大殿樣の姉君がいらしつた洛外の山莊で、御燒きになつたのでございます。
この雪解の御所と申しますのは、久しくどなたにも御住ひにはならなかつた所で、廣い御庭も荒れ放題荒れ果てて居りましたが、大方この人氣のない御容子を拜見した者の當推量でございませう。こゝで御歿《おな》くなりになつた妹君の御身の上にも、兎角の噂が立ちまして、中には又月のない夜毎々々に、今でも怪し
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