上つた儘、更に捗《はか》どる模樣はございません。いや、どうかすると今までに描いた所さへ、塗り消してもしまひ兼ねない氣色なのでございます。
 その癖、屏風の何が自由にならないのだか、それは誰にもわかりません。又誰もわからうとしたものもございますまい。前のいろ/\な出來事に懲りてゐる弟子たちは、まるで虎狼と一つ檻《をり》にでもゐるやうな心もちで、その後師匠の身のまはりへは、成る可く近づかない算段をして居りましたから。

       十二

 從つてその間の事に就いては、別に取り立てゝ申し上げる程の御話もございません。もし強ひて申上げると致しましたら、それはあの強情な老爺《おやじ》が、何故《なぜ》か妙に涙脆くなつて、人のゐない所では時々獨りで泣いてゐたと云ふ御話位なものでございませう。殊に或日、何かの用で弟子の一人が、庭先へ參りました時なぞは廊下に立つてぼんやり春の近い空を眺めてゐる師匠の眼が、涙で一ぱいになつてゐたさうでございます。弟子はそれを見ますと、反つてこちらが恥しいやうな氣がしたので、默つてこそ/\引き返したと申す事でございますが、五|趣生死《ごしゆしやうじ》の圖を描く爲には、道
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