着いたのを眺めますと、弟子は思はず、息を引いて、
「蛇が――蛇が。」と喚《わめ》きました。その時は全く體中の血が一時に凍るかと思つたと申しますが、それも無理はございません。蛇は實際もう少しで、鎖の食ひこんでゐる、頸の肉へその冷い舌の先を觸れようとしてゐたのでございます。この思ひもよらない出來事には、いくら横道な良秀でも、ぎよつと致したのでございませう。慌てて畫筆を投げ棄てながら、咄嗟に身をかがめたと思ふと、素早く蛇の尾をつかまへて、ぶらりと逆に吊り下げました。蛇は吊り下げられながらも、頭を上げて、きり/\と自分の體へ卷きつきましたが、どうしてもあの男の手の所まではとどきません。
「おのれ故に、あつたら一|筆《ふで》を仕損《しぞん》じたぞ。」
 良秀は忌々しさうにかう呟くと、蛇はその儘部屋の隅の壺の中へ抛りこんで、それからさも不承無承《ふしようぶしよう》に、弟子の體へかゝつてゐる鎖を解いてくれました。それも唯解いてくれたと云ふ丈で、肝腎の弟子の方へは、優《やさ》しい言葉一つかけてはやりません。大方弟子が蛇に噛まれるよりも、寫眞の一筆を誤つたのが、業腹《ごふはら》だつたのでございませう。―
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