あへ》ぐやうに大きく開けて居ります。さうしてその口の中で、何か糸でもつけて引張つてゐるかと疑ふ程、目まぐるしく動くものがあると思ひますと、それがあの男の舌だつたと申すではございませんか。切れ切れな語は元より、その舌から出て來るのでございます。
「誰だと思つたら――うん、貴樣だな。己も貴樣だらうと思つてゐた。なに、迎へに來たと? だから來い。奈落へ來い。奈落には――奈落には己の娘が待つてゐる。」
 その時、弟子の眼には、朦朧とした異形《いぎやう》の影《かげ》が、屏風の面《おもて》をかすめてむらむらと下りて來るやうに見えた程、氣味の惡い心もちが致したさうでございます。勿論弟子はすぐに良秀に手をかけて、力のあらん限り搖り起しましたが、師匠は猶|夢現《ゆめうつゝ》に獨り語を云ひつゞけて、容易に眼のさめる氣色はございません。そこで弟子は思ひ切つて、側にあつた筆洗の水を、ざぶりとあの男の顏へ浴びせかけました。
「待つてゐるから、この車へ乘つて來い――この車へ乘つて、奈落へ來い――」と云ふ語がそれと同時に、喉をしめられるやうな呻き聲に變つたと思ひますと、やつと良秀は眼を開いて、針で刺されたよりも慌し
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