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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)梯子《はしご》か何かに
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時|冬青《もち》の木の下に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)白※[#「皙」の「白」に代えて「日」、第3水準1−85−31]《はくせき》
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一 埃
僕の記憶の始まりは数え年の四つの時のことである。と言ってもたいした記憶ではない。ただ広さんという大工が一人、梯子《はしご》か何かに乗ったまま玄能で天井を叩《たた》いている、天井からはぱっぱっと埃《ほこり》が出る――そんな光景を覚えているのである。
これは江戸の昔から祖父や父の住んでいた古家を毀《こわ》した時のことである。僕は数え年の四つの秋、新しい家に住むようになった。したがって古家を毀したのは遅《おそ》くもその年の春だったであろう。
二 位牌
僕の家《うち》の仏壇には祖父母の位牌《いはい》や叔父《おじ》の位牌の前に大きい位牌が一つあった。それは天保《てんぽう》何年かに没した曾祖父母《そうそふぼ》の位牌だった。僕はもの心のついた時から、この金箔《きんぱく》の黒ずんだ位牌に恐怖に近いものを感じていた。
僕ののちに聞いたところによれば、曾祖父は奥坊主を勤めていたものの、二人の娘を二人とも花魁《おいらん》に売ったという人だった。のみならずまた曾祖母も曾祖父の夜泊まりを重ねるために家に焚《た》きもののない時には鉈《なた》で縁側を叩《たた》き壊《こわ》し、それを薪《たきぎ》にしたという人だった。
三 庭木
新しい僕の家の庭には冬青《もち》、榧《かや》、木斛《もっこく》、かくれみの、臘梅《ろうばい》、八つ手、五葉の松などが植わっていた。僕はそれらの木の中でも特に一本の臘梅を愛した。が、五葉の松だけは何か無気味でならなかった。
四 「てつ」
僕の家《うち》には子守《こも》りのほかに「てつ」という女中が一人あった。この女中はのちに「源《げん》さん」という大工のお上さんになったために「源てつ」という渾名《あだな》を貰《もら》ったものである。
なんでも一月か二月のある夜、(僕は数え年の五つだった)地震のために目をさました「てつ」は前後の分別を失ったとみえ、枕《まくら》もとの行灯《あんどん》をぶら下げたなり、茶の間から座敷を走りまわった。僕はその時座敷の畳に油じみのできたのを覚えている。それからまた夜中の庭に雪の積もっていたのを覚えている。
五 猫の魂
「てつ」は源《げん》さんへ縁づいたのちも時々僕の家《うち》へ遊びに来た。僕はそのころ「てつ」の話した、こういう怪談を覚えている。――ある日の午後、「てつ」は長火鉢《ながひばち》に頬杖《ほほづえ》をつき、半睡半醒《はんすいはんせい》の境にさまよっていた。すると小さい火の玉が一つ、「てつ」の顔のまわりを飛びめぐり始めた。「てつ」ははっとして目を醒《さ》ました。火の玉はもちろんその時にはもうどこかへ消え失《う》せていた。しかし「てつ」の信ずるところによればそれは四、五日前に死んだ「てつ」の飼い猫《ねこ》の魂がじゃれに来たに違いないというのだった。
六 草双紙
僕の家《うち》の本箱には草双紙《くさぞうし》がいっぱいつまっていた。僕はもの心のついたころからこれらの草双紙を愛していた。ことに「西遊記《さいゆうき》」を翻案した「金毘羅利生記《こんぴらりしょうき》」を愛していた。「金毘羅利生記」の主人公はあるいは僕の記憶に残った第一の作中人物かもしれない。それは岩裂《いわさき》の神という、兜巾鈴懸《ときんすずか》けを装った、目《ま》なざしの恐ろしい大天狗《だいてんぐ》だった。
七 お狸様
僕の家《うち》には祖父の代からお狸様《たぬきさま》というものを祀《まつ》っていた。それは赤い布団にのった一対の狸の土偶《でく》だった。僕はこのお狸様にも何か恐怖を感じていた。お狸様を祀ることはどういう因縁によったものか、父や母さえも知らないらしい。しかしいまだに僕の家には薄暗い納戸《なんど》の隅《すみ》の棚《たな》にお狸様の宮を設け、夜は必ずその宮の前に小さい蝋燭《ろうそく》をともしている。
八 蘭
僕は時々狭い庭を歩き、父の真似《まね》をして雑草を抜いた。実際庭は水場だけにいろいろの草を生じやすかった。僕はある時|冬青《もち》の木の下に細い一本の草を見つけ、早速それを抜きすててしまった。僕の所業を知った父は「せっかくの蘭《らん》を抜かれた」と何度も母にこぼしていた。が、格別、そのために叱《しか》られたという記憶は持っていない。蘭はどこでも石の間に特に一、二|茎《けい》植えたものだった。
九 夢中遊行
僕はそのころも今のように体《からだ》の弱い子供だった。ことに便秘《べんぴ》しさえすれば、必ずひきつける子供だった。僕の記憶に残っているのは僕が最後にひきつけた九歳の時のことである。僕は熱もあったから、床の中に横たわったまま、伯母《おば》の髪を結うのを眺《なが》めていた。そのうちにいつかひきつけたとみえ、寂しい海辺《うみべ》を歩いていた。そのまた海辺には人間よりも化け物に近い女が一人、腰巻き一つになったなり、身投げをするために合掌していた。それは「妙々車《みょうみょうぐるま》」という草双紙《くさぞうし》の中の插画《さしえ》だったらしい。この夢うつつの中の景色だけはいまだにはっきりと覚えている。正気になった時のことは覚えていない。
一〇 「つうや」
僕がいちばん親しんだのは「てつ」ののちにいた「つる」である。僕の家《うち》はそのころから経済状態が悪くなったとみえ、女中もこの「つる」一人ぎりだった。僕は「つる」のことを「つうや」と呼んだ。「つうや」はあたりまえの女よりもロマンティック趣味に富んでいたのであろう。僕の母の話によれば、法界節《ほうかいぶし》が二、三人|編《あ》み笠《がさ》をかぶって通るのを見ても「敵討《かたきう》ちでしょうか?」と尋ねたそうである。
一一 郵便箱
僕の家《うち》の門の側《そば》には郵便箱が一つとりつけてあった。母や伯母《おば》は日の暮れになると、かわるがわる門の側へ行き、この小さい郵便箱の口から往来の人通りを眺《なが》めたものである。封建時代らしい女の気もちは明治三十二、三年ころにもまだかすかに残っていたであろう。僕はまたこういう時に「さあ、もう雀色時《すずめいろどき》になったから」と母の言ったのを覚えている。雀色時という言葉はそのころの僕にも好きな言葉だった。
一二 灸
僕は何かいたずらをすると、必ず伯母《おば》につかまっては足の小指に灸《きゅう》をすえられた。僕に最も怖《おそ》ろしかったのは灸の熱さそれ自身よりも灸をすえられるということである。僕は手足をばたばたさせながら「かちかち山だよう。ぼうぼう山だよう」と怒鳴ったりした。これはもちろん火がつくところから自然と連想《れんそう》を生じたのであろう。
一三 剥製の雉
僕の家《うち》へ来る人々の中に「お市さん」という人があった。これは代地《だいち》かどこかにいた柳派の「五《ご》りん」のお上《かみ》さんだった。僕はこの「お市さん」にいろいろの画本《えほん》や玩具《おもちゃ》などを貰《もら》った。その中でも僕を喜ばせたのは大きい剥製《はくせい》の雉《きじ》である。
僕は小学校を卒業する時、その尾羽根の切れかかった雉を寄附していったように覚えている。が、それは確かではない。ただいまだにおかしいのは雉の剥製を貰った時、父が僕に言った言葉である。
「昔、うちの隣にいた××××(この名前は覚えていない)という人はちょうど元日のしらしら明けの空を白い鳳凰《ほうおう》がたった一羽、中洲《なかず》の方へ飛んで行くのを見たことがあると言っていたよ。もっともでたらめを言う人だったがね」
一四 幽霊
僕は小学校へはいっていたころ、どこの長唄《ながうた》の女師匠は亭主の怨霊《おんりょう》にとりつかれているとか、ここの仕事師のお婆《ばあ》さんは嫁の幽霊に責められているとか、いろいろの怪談を聞かせられた。それをまた僕に聞かせたのは僕の祖父の代に女中をしていた「おてつさん」という婆さんである。僕はそんな話のためか、夢とも現《うつつ》ともつかぬ境にいろいろの幽霊に襲われがちだった。しかもそれらの幽霊はたいていは「おてつさん」の顔をしていた。
一五 馬車
僕が小学校へはいらぬ前、小さい馬車を驢馬《ろば》に牽《ひ》かせ、そのまた馬車に子供を乗せて、町内をまわる爺《じい》さんがあった。僕はこの小さい馬車に乗って、お竹倉や何かを通りたかった。しかし僕の守《も》りをした「つうや」はなぜかそれを許さなかった。あるいは僕だけ馬車へ乗せるのを危険にでも思ったためかもしれない。けれども青い幌《ほろ》を張った、玩具《おもちゃ》よりもわずかに大きい馬車が小刻みにことこと歩いているのは幼目にもハイカラに見えたものである。
一六 水屋
そのころはまた本所《ほんじょ》も井戸の水を使っていた。が、特に飲用水だけは水屋の水を使っていた。僕はいまだに目に見えるように、顔の赤い水屋の爺《じい》さんが水桶《みずおけ》の水を水甕《みずがめ》の中へぶちまける姿を覚えている。そう言えばこの「水屋さん」も夢現《ゆめうつつ》の境に現われてくる幽霊の中の一人だった。
一七 幼稚園
僕は幼稚園へ通いだした。幼稚園は名高い回向院《えこういん》の隣の江東小学校の附属である。この幼稚園の庭の隅《すみ》には大きい銀杏《いちょう》が一本あった。僕はいつもその落葉を拾い、本の中に挾《はさ》んだのを覚えている。それからまたある円顔《まるがお》の女生徒が好きになったのも覚えている。ただいかにも不思議なのは今になって考えてみると、なぜ彼女を好きになったか、僕自身にもはっきりしない。しかしその人の顔や名前はいまだに記憶に残っている。僕はつい去年の秋、幼稚園時代の友だちに遇《あ》い、そのころのことを話し合った末、「先方でも覚えているかしら」と言った。
「そりゃ覚えていないだろう」
僕はこの言葉を聞いた時、かすかに寂しい心もちがした。その人は少女に似合わない、萩《はぎ》や芒《すすき》に露の玉を散らした、袖《そで》の長い着物を着ていたものである。
一八 相撲
相撲《すもう》もまた土地がらだけに大勢近所に住まっていた。現に僕の家《うち》の裏の向こうは年寄りの峯岸《みねぎし》の家だったものである。僕の小学校にいた時代はちょうど常陸山《ひたちやま》や梅ヶ谷の全盛を極《きわ》めた時代だった。僕は荒岩亀之助が常陸山を破ったため、大評判になったのを覚えている。いったいひとり荒岩に限らず、国見山でも逆鉾《さかほこ》でもどこか錦絵《にしきえ》の相撲に近い、男ぶりの人に優《すぐ》れた相撲はことごとく僕の贔屓《ひいき》だった。しかし相撲というものは何か僕にはばくぜんとした反感に近いものを与えやすかった。それは僕が人並みよりも体《からだ》が弱かったためかもしれない。また平生見かける相撲が――髪を藁束《わらたば》ねにした褌《ふんどし》かつぎが相撲膏《すもうこう》を貼《は》っていたためかもしれない。
一九 宇治紫山
僕の一家は宇治紫山《うじしざん》という人に一中節《いっちゅうぶし》を習っていた。この人は酒だの遊芸だのにお蔵前の札差しの身上《しんしょう》をすっかり費やしてしまったらしい。僕はこの「お師匠さん」の酒の上の悪かったのを覚えている。また小さい借家にいても、二、三坪の庭に植木屋を入れ、冬などは実を持った青木の下に枯れ松葉を敷かせたのを覚えている。
この「お師匠さん」は長命だっ
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