んの『行人《こうじん》』の中に和歌の浦へ行った男と女とがとうとう飯を食う気にならずに膳《ぜん》を下げさせるところがあるでしょう。あすこを牢《ろう》の中で読んだ時にはしみじみもったいないと思いましたよ」
彼は人懐《ひとなつこ》い笑顔《えがお》をしながら、そんなことも話していったものだった。
三六 火花
やはりそのころの雨上がりの日の暮れ、僕は馬車通りの砂利道を一隊の歩兵の通るのに出合った。歩兵は銃を肩にしたまま、黙って進行をつづけていた。が、その靴《くつ》は砂利と擦《す》れるたびに時々火花を発していた。僕はこのかすかな火花に何か悲壮な心もちを感じた。
それから何年かたったのち、僕は白柳《しらやなぎ》秀湖氏の「離愁」とかいう小品集を読み、やはり歩兵の靴から出る火花を書いたものを発見した。(僕に白柳秀湖氏や上司《かみつかさ》小剣氏の名を教えたものもあるいはヒサイダさんだったかもしれない)それはまだ中学生の僕には僕自身同じことを見ていたせいか、感銘の深いものに違いなかった。僕はこの文章から同氏の本を読むようになり、いつかロシヤの文学者の名前を、――ことにトゥルゲネフの名前を覚えるようになった。それらの小品集はどこへ行ったか、今はもう本屋でも見かけたことはない。しかし僕は同氏の文章にいまだに愛惜を感じている。ことに東京の空を罩《こ》める「鳶色《とびいろ》の靄《もや》」などという言葉に。
三七 日本海海戦
僕らは皆日本海海戦の勝敗を日本の一大事と信じていた。が、「今日晴朗なれども浪《なみ》高し」の号外は出ても、勝敗は容易にわからなかった。するとある日の午飯《ひるめし》の時間に僕の組の先生が一人、号外を持って教室へかけこみ、「おい、みんな喜べ。大勝利だぞ」と声をかけた。この時の僕らの感激は確かにまた国民的だったのであろう。僕は中学を卒業しない前に国木田独歩の作品を読み、なんでも「電報」とかいう短篇にやはりこういう感激を描いてあるのを発見した。
「皇国の興廃この一挙にあり」云々《うんぬん》の信号を掲げたということはおそらくはいかなる戦争文学よりもいっそう詩的な出来事だったであろう。しかし僕は十年ののち、海軍機関学校の理髪師に頭を刈ってもらいながら、彼もまた日露の戦役に「朝日」の水兵だった関係上、日本海海戦の話をした。すると彼はにこりともせず、きわめてむぞうさにこう言うのだった。
「なに、あの信号は始終でしたよ。それは号外にも出ていたのは日本海海戦の時だけですが」
三八 柔術
僕は中学で柔術を習った。それからまた浜町河岸《はまちょうがし》の大竹という道場へもやはり寒稽古《かんげいこ》などに通ったものである。中学で習った柔術は何流だったか覚えていない。が、大竹の柔術は確か天真揚心流だった。僕は中学の仕合いへ出た時、相手の稽古着へ手をかけるが早いか、たちまちみごとな巴投《ともえな》げを食い、向こう側に控えた生徒たちの前へ坐《すわ》っていたことを覚えている。当時の僕の柔道友だちは西川英次郎一人だった。西川は今は鳥取《とっとり》の農林学校か何かの教授をしている。僕はそののちも秀才と呼ばれる何人かの人々に接してきた。が、僕を驚かせた最初の秀才は西川だった。
三九 西川英次郎
西川は渾名《あだな》をライオンと言った。それは顔がどことなしにライオンに似ていたためである。僕は西川と同級だったために少なからず啓発を受けた。中学の四年か五年の時に英訳の「猟人日記」だの「サッフォオ」だのを読みかじったのは、西川なしにはできなかったであろう。が、僕は西川には何も報いることはできなかった。もし何か報いたとすれば、それはただ足がらをすくって西川を泣かせたことだけであろう。
僕はまた西川といっしょに夏休みなどには旅行した。西川は僕よりも裕福だったらしい。しかし僕らは大旅行をしても、旅費は二十円を越えたことはなかった。僕はやはり西川といっしょに中里介山氏の「大菩薩峠《だいぼさつとうげ》」に近い丹波山という寒村に泊まり、一等三十五銭という宿賃を払ったのを覚えている。しかしその宿は清潔でもあり、食事も玉子焼などを添えてあった。
たぶんまだ残雪の深い赤城山へ登った時であろう。西川はこごみかげんに歩きながら、急に僕にこんなことを言った。
「君は両親に死なれたら、悲しいとかなんとか思うかい?」
僕はちょっと考えたのち、「悲しいと思う」と返事をした。
「僕は悲しいとは思わない。君は創作をやるつもりなんだから、そういう人間もいるということを知っておくほうがいいかもしれない」
しかし僕はその時分にはまだ作家になろうという志望などを持っていたわけではなかった。それをなぜそう言われたかはいまだに僕には不可解である。
四〇 勉強
僕は僕の中学時代はもちろん、復習というものをしたことはなかった。しかし試験勉強はたびたびした。試験の当日にはどの生徒も運動場でも本を読んだりしている。僕はそれを見るたびに「僕ももっと勉強すればよかった」という後悔を伴った不安を感じた。が、試験場を出るが早いか、そんなことはけろりと忘れていた。
四一 金
僕は一円の金を貰《もら》い、本屋へ本を買いに出かけると、なぜか一円の本を買ったことはなかった。しかし一円出しさえすれば、僕が欲《ほ》しいと思う本は手にはいるのに違いなかった。僕はたびたび七十銭か八十銭の本を持ってきたのち、その本を買ったことを後悔していた。それはもちろん本ばかりではなかった。僕はこの心もちの中に中産下層階級を感じている。今日でも中産下層階級の子弟は何か買いものをするたびにやはり一円持っているものの、一円をすっかり使うことに逡巡《しゅんじゅん》してはいないであろうか?
四二 虚栄心
ある冬に近い日の暮れ、僕は元町通りを歩きながら、突然往来の人々が全然僕を顧みないのを感じた。同時にまた妙に寂しさを感じた。しかし格別「今に見ろ」という勇気の起こることは感じなかった。薄い藍色に澄み渡った空には幾つかの星も輝いていた。僕はこれらの星を見ながら、できるだけ威張って歩いて行った。
四三 発火演習
僕らの中学は秋になると、発火演習を行なったばかりか、東京のある聯隊《れんたい》の機動演習にも参加したものである。体操の教官――ある陸軍大尉はいつも僕らには厳然としていた。が、実際の機動演習になると、時々命令に間違いを生じ、おお声に上官に叱《しか》られたりしていた。僕はいつもこの教官に同情したことを覚えている。
四四 渾名
あらゆる東京の中学生が教師につける渾名《あだな》ほど刻薄に真実に迫るものはない。僕はあいにく今日ではそれらの渾名を忘れている。が、今から四、五年前、僕の従姉《いとこ》の子供が一人、僕の家《うち》へ遊びに来た時、ある中学の先生のことを「マッポンがどうして」などと話していた。僕はもちろん「マッポン」とはなんのことかと質問した。
「どういうことも何もありませんよ。ただその先生の顔を見ると、マッポンという気もちがするだけですよ」
僕はそれからしばらくののち、この中学生と電車に乗り、偶然その先生の風※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》に接した。するとそれは、――僕もやはり文章ではとうてい真実を伝えることはできない。つまりそれは渾名どおり、正《まさ》に「マッポン」という感じだった。
[#地から2字上げ](大正十五年三月―昭和二年一月)
底本:「河童・玄鶴山房」角川文庫、角川書店
1969(昭和44)年11月30日改版初版発行
1979(昭和54)年9月20日改版14版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:一色伸子
校正:小林繁雄
2001年1月29日公開
2004年3月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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