んの『行人《こうじん》』の中に和歌の浦へ行った男と女とがとうとう飯を食う気にならずに膳《ぜん》を下げさせるところがあるでしょう。あすこを牢《ろう》の中で読んだ時にはしみじみもったいないと思いましたよ」
 彼は人懐《ひとなつこ》い笑顔《えがお》をしながら、そんなことも話していったものだった。

     三六 火花

 やはりそのころの雨上がりの日の暮れ、僕は馬車通りの砂利道を一隊の歩兵の通るのに出合った。歩兵は銃を肩にしたまま、黙って進行をつづけていた。が、その靴《くつ》は砂利と擦《す》れるたびに時々火花を発していた。僕はこのかすかな火花に何か悲壮な心もちを感じた。
 それから何年かたったのち、僕は白柳《しらやなぎ》秀湖氏の「離愁」とかいう小品集を読み、やはり歩兵の靴から出る火花を書いたものを発見した。(僕に白柳秀湖氏や上司《かみつかさ》小剣氏の名を教えたものもあるいはヒサイダさんだったかもしれない)それはまだ中学生の僕には僕自身同じことを見ていたせいか、感銘の深いものに違いなかった。僕はこの文章から同氏の本を読むようになり、いつかロシヤの文学者の名前を、――ことにトゥルゲネフの名前を
前へ 次へ
全27ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング