る。

     二三 ダアク一座

 僕は当時|回向院《えこういん》の境内にいろいろの見世物を見たものである。風船乗り、大蛇《だいじゃ》、鬼の首、なんとか言う西洋人が非常に高い桿《さお》の上からとんぼ[#「とんぼ」に傍点]を切って落ちて見せるもの、――数え立てていれば際限はない。しかしいちばんおもしろかったのはダアク一座の操《あやつ》り人形である。その中でもまたおもしろかったのは道化《どうけ》た西洋の無頼漢が二人、化けもの屋敷に泊まる場面である。彼らの一人は相手の名前をいつもカリフラと称していた。僕はいまだに花キャベツを食うたびに必ずこの「カリフラ」を思い出すのである。

     二四 中洲

 当時の中洲《なかず》は言葉どおり、芦《あし》の茂ったデルタアだった。僕はその芦の中に流れ灌頂《かんじょう》や馬の骨を見、気味悪がったことを覚えている。それから小学校の先輩に「これはアシかヨシか?」と聞かれて当惑したことも覚えている。

     二五 寿座

 本所《ほんじょ》の寿座ができたのもやはりそのころのことだった。僕はある日の暮れがた、ある小学校の先輩と元町通りを眺《なが》めていた。すると亜鉛《トタン》の海鼠板《なまこいた》を積んだ荷車が何台も通って行った。
「あれはどこへ行く?」
 僕の先輩はこう言った。が、僕はどこへ行くか見当も何もつかなかった。
「寿座! じゃあの荷車に積んであるのは?」
 僕は今度は勢い好《よ》く言った。
「ブリッキ!」
 しかしそれはいたずらに先輩の冷笑を買うだけだった。
「ブリッキ? あれはトタンというものだ」
 僕はこういう問答のため、妙に悄気《しょげ》たことを覚えている。その先輩は中学を出たのち、たちまち肺を犯されて故人になったとかいうことだった。

     二六 いじめっ子

 幼稚園にはいっていた僕はほとんど誰《だれ》にもいじめられなかった。もっとも本間《ほんま》の徳ちゃんにはたびたび泣かされたものである。しかしそれは喧嘩《けんか》の上だった。したがって僕も三度に一度は徳ちゃんを泣かせた記憶を持っている。徳ちゃんは確か総武鉄道の社長か何かの次男に生まれた、負けぬ気の強い餓鬼大将だった。
 しかし小学校へはいるが早いか僕はたちまち世間に多い「いじめっ子」というものにめぐり合った。「いじめっ子」は杉浦誉四郎である。これは僕の隣席
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