にいたから何か口実を拵《こしら》えてはたびたび僕をつねったりした。おまけに杉浦の家の前を通ると狼《おおかみ》に似た犬をけしかけたりもした。(これは今日考えてみれば Greyhound という犬だったであろう)僕はこの犬に追いつめられたあげく、とうとうある畳屋の店へ飛び上がってしまったのを覚えている。
 僕は今漫然と「いじめっ子」の心理を考えている。あれは少年に現われたサアド型性欲ではないであろうか? 杉浦は僕のクラスの中でも最も白※[#「皙」の「白」に代えて「日」、第3水準1−85−31]《はくせき》の少年だった。のみならずある名高い富豪の妾腹にできた少年だった。

     二七 画

 僕は幼稚園にはいっていたころには海軍将校になるつもりだった。が、小学校へはいったころからいつか画家志願に変っていた。僕の叔母《おば》は狩野勝玉《かのうしょうぎょく》という芳崖《ほうがい》の乙弟子《おとでし》に縁づいていた。僕の叔父《おじ》もまた裁判官だった雨谷《うこく》に南画を学んでいた。しかし僕のなりたかったのはナポレオンの肖像だのライオンだのを描《か》く洋画家だった。
 僕が当時買い集めた西洋名画の写真版はいまだに何枚か残っている。僕は近ごろ何かのついでにそれらの写真版に目を通した。するとそれらの一枚は、樹下に金髪の美人を立たせたウイスキイの会社の広告画だった。

     二八 水泳

 僕の水泳を習ったのは日本水泳協会だった。水泳協会に通ったのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風《ながいかふう》氏や谷崎《たにざき》潤一郎氏もやはりそこへ通ったはずである。当時は水泳協会も芦《あし》の茂った中洲《なかず》から安田の屋敷前へ移っていた。僕はそこへ二、三人の同級の友達と通って行った。清水昌彦《しみずまさひこ》もその一人だった。
「僕は誰《だれ》にもわかるまいと思って水の中でウンコをしたら、すぐに浮いたんでびっくりしてしまった。ウンコは水よりも軽いもんなんだね」
 こういうことを話した清水も海軍将校になったのち、一昨年《おととし》(大正十三年)の春に故人になった。僕はその二、三週間前に転地先の三島からよこした清水の手紙を覚えている。
「これは僕の君に上げる最後の手紙になるだろうと思う。僕は喉頭《こうとう》結核の上に腸結核も併発している。妻は僕と同じ病気に罹《かか》り僕よりも先に
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