を紫檀《したん》の机の上へ開いて、静かに始めから読んでいた。
 むろんそこには、いやみや涙があった。いや、詠歎《えいたん》そのものさえも、すでに時代と交渉がなくなっていたと言ってもさしつかえない。が、それにもかかわらず、あの「わが袖の記」の文章の中にはどこか樗牛という人間を彷彿《ほうふつ》させるものがあった。そうしてその人間は、迂余曲折《うよきょくせつ》をきわめたしちめんどうな辞句の間に、やはり人間らしく苦しんだりもがいたりしていた。だから樗牛は、うそつきだったわけでもなんでもない。ただ中学生だった自分の眼が、この樗牛の裸の姿をつかまえそくなっただけである。自分は樗牛の慟哭《どうこく》には微笑した。が、そのもっともかすかな吐息《といき》には、幾度も同情せずにいられなかった。――日は遠く海の上を照している。海は銀泥《ぎんでい》をたたえたように、広々と凪《な》ぎつくして、息をするほどの波さえ見えない。その日と海とをながめながら、樗牛は砂の上にうずくまって、生ということを考える。死ということを考える。あるいはまた芸術ということを考える。が、樗牛の思索は移っていっても、周囲の景物にはさらに変化
前へ 次へ
全9ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング