らしい変化がない。暖かい砂の上には、やはり船が何艘《なんそう》も眠っている。さっきから倦《う》まずにその下を飛んでいるのは、おおかたこの海に多い鴎《かもめ》であろう。と思うとまた、向こうに日を浴びている漁夫の翁《おきな》も、あいかわらず網をつくろうのに余念がない。こういう風景をながめていると、病弱な樗牛の心の中には、永遠なるものに対する※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]《しょうけい》が汪然《おうぜん》としてわいてくる。日も動かない。砂も動かない。海は――目の前に開いている海も、さながら白昼の寂寞《せきばく》に聞き入ってでもいるかのごとく、雲母《きらら》よりもまぶしい水面を凝然《ぎょうぜん》と平《たいら》に張りつめている。樗牛の吐息はこんな瞬間に、はじめて彼の胸からあふれて出た。――自分はこういう樗牛を想像しながら、長い秋の夜を、いつまでもその文章に対していた。が、同情は昔とちがって、惜しげもなくその美しい文章に注がれるが、しかも樗牛と自分との間には、まだ何かがはさまっている。それは時代であろうか。いや、それはただ、時代ばかりであろうか。――自分はこう自分に問いかけた時、手もとにない樗牛の本が改めてまた読みたかった。それを今まで読まクにいるのは、したがってこの問に明白な答を与ええないのは、全く自分の怠慢である。そう言えば今年の秋も、もういつか小春《こはる》になってしまった。

       二

 ちょうどそれと反対なのは、竜華寺《りゅうげじ》にある樗牛の墓である。
 始《はじめ》、竜華寺へ行ったのは中学の四年生の時だった。春の休暇のある日、確《たしか》、静岡《しずおか》から久能山《くのうざん》へ行って、それからあすこへまわったかと思う。あいにくの吹き降りで、不二見村《ふじみむら》の往還から寺の門まで行く路が、文字通りくつを没するほどぬかっていたが、その春雨にぬれた大覇王樹《だいはおうじゅ》が、青い杓子《しゃくし》をべたべたのばしながら、もの静かな庫裡《くり》を後ろにして、夏目先生の「草枕《くさまくら》」の一節を思い出させたのは、今でも歴々と覚えている。それから急な石段を墓の所へ登ると、菫《すみれ》がたくさん咲いていた。いや、墓の上にも、誰《だれ》がやったのだか、その菫を束にしたのが二つ三つ
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