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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)樗牛《ちょぎゅう》の事
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)感慨|悲慟《ひどう》するところがあった
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]
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一
中学の三年の時だった。三学期の試験をすませたあとで、休暇中読む本を買いつけの本屋から、何冊だか取りよせたことがある。夏目先生の虞美人草《ぐびじんそう》なども、その時その中に交っていたかと思う。が、中でもいちばん大部だったのは、樗牛全集の五冊だった。
自分はそのころから非常な濫読家だったから、一週間の休暇の間に、それらの本を手に任せて読み飛ばした。もちろん樗牛全集の一巻、二巻、四巻などは、読みは読んでもむずかしくって、よく理窟《りくつ》がのみこめなかったのにちがいない。が、三巻や五巻などは、相当の興味をもって、しまいまで読み通すことができたように記憶する。
その時、はじめて樗牛に接した自分は、あの名文からはなはだよくない印象を受けた。というのは、中学生たる自分にとって、どうも樗牛はうそつきだという気がしたのである。
それにはほかにもいろいろ理由があったろうが、今でも覚えているのは、あの「わが袖《そで》の記」や何かの美しい文章が、いかにもそらぞらしく感ぜられたことである。あれには樗牛が月夜か何かに、三保《みほ》の松原の羽衣《はごろも》の松の下へ行って、大いに感慨|悲慟《ひどう》するところがあった。あすこを読むと、どうも樗牛は、いい気になって流せる涙を、ふんだんに持ち合わせていたような心もちがする。あるいは持ち合わせていなくっても、文章の上だけでおくめんもなく滂沱《ぼうだ》の観を呈しえたような心もちがする。その得意になって、泣き落しているところが、はなはだ自分には感心できなかった。人をあざむくか、己《おのれ》をあざむくか、どこかでうそをつかなければ、とうていああおおげさには、おいおい泣けるわけのものじゃない。――そこで、自分は一も二もなく樗牛をうそつきだときめてしまったのである。だからそれ以来、二度とあの「わが袖の記」や何かを読もうと思ったことはない。
それから
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