を帯びて来た。見れば、眼も涙ぐんでいる。
「世の嘲《あざけ》りはうける。家督は人の手に渡す。天道の光さえ、修理にはささぬかと思うような身の上じゃ。その修理が、今生の望にただ一度、出仕したいと云う、それをこばむような宇左衛門ではあるまい。宇左衛門なら、この修理を、あわれとこそ思え、憎いとは思わぬ筈じゃ。修理は、宇左衛門を親とも思う。兄弟とも思う。親兄弟よりも、猶更《なおさら》なつかしいものと思う。広い世界に、修理がたのみに思うのは、ただその方一人きりじゃ。さればこそ、無理な頼みもする。が、これも決して、一生に二度とは云わぬ。ただ、今度《こんど》一度だけじゃ。宇左衛門、どうかこの心を察してくれい。どうかこの無理を許してくれい。これ、この通りじゃ。」
 彼は、家老の前へ両手をついて、涙を落しながら、額《ひたい》を畳へつけようとした。宇左衛門は、感動した。
「御手をおあげ下さいまし。御手をおあげ下さいまし。勿体《もったい》のうございます。」
 彼は、修理《しゅり》の手をとって、無理に畳から離させた。そうして泣いた。すると、泣くに従って、彼の心には次第にある安心が、溢《あふ》れるともなく、溢れて来る。――彼は涙の中《なか》に、佐渡守の前で云い切った語《ことば》を、再びありありと思い浮べた。
「よろしゅうございまする。佐渡守様が何とおっしゃりましょうとも、万一の場合には、宇左衛門|皺腹《しわばら》を仕《つかまつ》れば、すむ事でございまする。私《わたくし》一人《ひとり》の粗忽《そこつ》にして、きっと御登城おさせ申しましょう。」
 これを聞くと、修理の顔は、急に別人の如く喜びにかがやいた。その変り方には、役者のような巧みさがある。がまた、役者にないような自然さもある。――彼は、突然調子の外《はず》れた笑い声を洩《も》らした。
「おお、許してくれるか。忝《かたじけな》い。忝いぞよ。」
 そう云って、彼は嬉しそうに、左右を顧みた。
「皆のもの、よう聞け。宇左衛門は、登城を許してくれたぞ。」
 人払いをした居間には、彼と宇左衛門のほかに誰もいない。皆のもの――宇左衛門は、気づかわしそうに膝《ひざ》を進めて、行燈《あんどう》の火影《ほかげ》に恐る恐る、修理の眼の中を窺《うかが》った。

     三 刃傷《にんじょう》

 延享《えんきょう》四年八月十五日の朝、五つ時過ぎに、修理《しゅり》は、殿中で、何の恩怨《おんえん》もない。肥後国熊本の城主、細川越中守宗教《ほそかわえっちゅうのかみむねのり》を殺害《せつがい》した。その顛末《てんまつ》は、こうである。

       ―――――――――――――――――――――――――

 細川家は、諸侯の中でも、すぐれて、武備に富んだ大名である。元姫君《もとひめぎみ》と云われた宗教《むねのり》の内室さえ、武芸の道には明《あかる》かった。まして宗教の嗜《たしな》みに、疎《おろそか》な所などのあるべき筈はない。それが、「三斎《さんさい》の末なればこそ細川は、二歳《にさい》に斬《き》られ、五歳《ごさい》ごとなる。」と諷《うた》われるような死を遂げたのは、完《まった》く時の運であろう。
 そう云えば、細川家には、この凶変《きょうへん》の起る前兆が、後《のち》になって考えれば、幾つもあった。――第一に、その年三月中旬、品川|伊佐羅子《いさらご》の上屋敷《かみやしき》が、火事で焼けた。これは、邸内に妙見《みょうけん》大菩薩があって、その神前の水吹石《みずふきいし》と云う石が、火災のある毎《ごと》に水を吹くので、未嘗《いまだかつて》、焼けたと云う事のない屋敷である。第二に、五月上旬、門へ打つ守り札を、魚籃《ぎょらん》の愛染院《あいぜんいん》から奉ったのを見ると、御武運長久|御息災《ごそくさい》とある可き所に災の字が書いてない。これは、上野|宿坊《しゅくぼう》の院代《いんだい》へ問い合せた上、早速愛染院に書き直させた。第三に、八月上旬、屋敷の広間あたりから、夜な夜な大きな怪火が出て、芝の方へ飛んで行ったと云う。
 そのほか、八月十四日の昼には、天文に通じている家来の才木茂右衛門《さいきもえもん》と云う男が目付《めつけ》へ来て、「明十五日は、殿の御身《おんみ》に大変があるかも知れませぬ。昨夜《さくや》天文を見ますと、将星が落ちそうになって居ります。どうか御慎み第一に、御他出なぞなさいませんよう。」と、こう云った。目付は、元来余り天文なぞに信を措《お》いていない。が、日頃この男の予言は、主人が尊敬しているので、取あえず近習《きんじゅ》の者に話して、その旨を越中守の耳へ入れた。そこで、十五日に催す能狂言《のうきょうげん》とか、登城の帰りに客に行くとか云う事は、見合せる事になったが、御奉公の一つと云う廉《かど》で、出仕だけは止《や》めにならなかったらしい。
 それが、翌日になると、また不吉《ふきつ》な前兆が、加わった。――十五日には、いつも越中守自身、麻上下《あさがみしも》に着換えてから、八幡大菩薩に、神酒《みき》を備えるのが慣例になっている。ところが、その日は、小姓《こしょう》の手から神酒《みき》を入れた瓶子《へいし》を二つ、三宝《さんぼう》へのせたまま受取って、それを神前へ備えようとすると、どうした拍子か瓶子は二つとも倒れて、神酒が外へこぼれてしまった。その時は、さすがに一同、思わず顔色を変えたと云う事である。

       ―――――――――――――――――――――――――

 翌日、越中守は登城すると、御坊主《おぼうず》田代祐悦《たしろゆうえつ》が供をして、まず、大広間へ通った。が、やがて、大便を催したので、今度は御坊主黒木|閑斎《かんさい》をつれて、湯呑み所際《じょぎわ》の厠《かわや》へはいって、用を足《た》した。さて、厠を出て、うすぐらい手水所《ちょうずどころ》で手を洗っていると突然|後《うしろ》から、誰とも知れず、声をかけて、斬りつけたものがある。驚いて、振り返ると、その拍子にまた二の太刀が、すかさず眉間《みけん》へ閃《ひらめ》いた。そのために血が眼へはいって、越中守は、相手の顔も見定める事が出来ない。相手は、そこへつけこんで、たたみかけ、たたみかけ、幾太刀《いくたち》となく浴せかけた。そうして、越中守がよろめきながら、とうとう、四《し》の間《ま》の縁に仆《たお》れてしまうと、脇差《わきざし》をそこへ捨てたなり、慌ててどこか見えなくなってしまった。
 ところが、伴をしていた黒木閑斎が、不意の大変に狼狽《ろうばい》して、大広間の方へ逃げて行ったなり、これもどこかへ隠れてしまったので、誰もこの刃傷《にんじょう》を知るものがない。それを、暫くしてから、漸《ようや》く本間|定五郎《さだごろう》と云う小拾人《こじゅうにん》が、御番所《ごばんしょ》から下部屋《しもべや》へ来る途中で発見した。そこで、すぐに御徒目付《おかちめつけ》へ知らせる。御徒目付からは、御徒組頭|久下善兵衛《くげぜんべえ》、御徒目付土田|半右衛門《はんえもん》、菰田仁右衛門《こもだにえもん》、などが駈けつける。――殿中では忽ち、蜂《はち》の巣を破ったような騒動が出来《しゅったい》した。
 それから、一同集って、手負《てお》いを抱きあげて見ると、顔も体も血まみれで誰とも更に見分ける事が出来ない。が、耳へ口をつけて呼ぶと、漸く微《かすか》な声で、「細川越中」と答えた。続いて、「相手はどなたでござる」と尋ねたが、「上下《かみしも》を着た男」と云う答えがあっただけで、その後は、もうこちらの声も通じないらしい。創《きず》は「首構《くびがまえ》七寸程、左肩《ひだりかた》六七寸ばかり、右肩五寸ばかり、左右手四五ヶ所、鼻上耳脇また頭《かしら》に疵《きず》二三ヶ所、背中右の脇腹まで筋違《すじかい》に一尺五寸ばかり」である。そこで、当番御目付土屋長太郎、橋本|阿波守《あわのかみ》は勿論、大目付|河野豊前守《こうのぶぜんのかみ》も立ち合って、一まず手負いを、焚火《たきび》の間《ま》へ舁《かつ》ぎこんだ。そうしてそのまわりを小屏風《こびょうぶ》で囲んで、五人の御坊主を附き添わせた上に、大広間詰の諸大名が、代る代る来て介抱《かいほう》した。中でも松平|兵部少輔《ひょうぶしょうゆう》は、ここへ舁《かつ》ぎこむ途中から、最も親切に劬《いたわ》ったので、わき眼にも、情誼の篤《あつ》さが忍ばれたそうである。
 その間に、一方では老中《ろうじゅう》若年寄衆へこの急変を届けた上で、万一のために、玄関先から大手まで、厳しく門々を打たせてしまった。これを見た大手先《おおてさき》の大小名の家来《けらい》は、驚破《すわ》、殿中に椿事《ちんじ》があったと云うので、立ち騒ぐ事が一通りでない。何度目付衆が出て、制しても、すぐまた、海嘯《つなみ》のように、押し返して来る。そこへ、殿中の混雑もまた、益々甚しくなり出した。これは御目付土屋長太郎が、御徒目付《おかちめつけ》、火の番などを召し連れて、番所番所から勝手まで、根気よく刃傷《にんじょう》の相手を探して歩いたが、どうしても、その「上下《かみしも》を着た男」を見つける事が出来なかったからである。
 すると、意外にも、相手は、これらの人々の眼にはかからないで、かえって宝井宗賀《たからいそうが》と云う御坊主《ごぼうず》のために、発見された。――宗賀は大胆な男で、これより先、一同のさがさないような場所場所を、独りでしらべて歩いていた。それがふと焚火《たきび》の間《ま》の近くの厠《かわや》の中を見ると、鬢《びん》の毛をかき乱した男が一人、影のように蹲《うずくま》っている。うす暗いので、はっきりわからないが、どうやら鼻紙|嚢《ぶくろ》から鋏《はさみ》を出して、そのかき乱した鬢《びん》の毛を鋏んででもいるらしい。そこで宗賀《そうが》は、側へよって声をかけた。
「どなたでござる。」
「これは、人を殺したで、髪を切っているものでござる。」
 男は、しわがれた声で、こう答えた。
 もう疑う所はない。宗賀は、すぐに人を呼んで、この男を厠《かわや》の中から、ひきずり出した。そうして、とりあえず、それを御徒目付の手に渡した。
 御徒目付はまた、それを蘇鉄《そてつ》の間《ま》へつれて行って、大目付始め御目付衆立ち合いの上で、刃傷《にんじょう》の仔細《しさい》を問い質《ただ》した。が、男は、物々しい殿中の騒ぎを、茫然と眺めるばかりで、更に答えらしい答えをしない。偶々《たまたま》口を開けば、ただ時鳥《ほととぎす》の事を云う。そうして、そのあい間には、血に染まった手で、何度となく、鬢の毛をかきむしった。――修理は既に、発狂《はっきょう》していたのである。

       ―――――――――――――――――――――――――

 細川越中守は、焚火の間で、息をひきとった。が、大御所《おおごしょ》吉宗《よしむね》の内意を受けて、手負《てお》いと披露《ひろう》したまま駕籠《かご》で中の口から、平川口へ出て引きとらせた。公《おおやけ》に死去の届が出たのは、二十一日の事である。
 修理《しゅり》は、越中守が引きとった後《あと》で、すぐに水野|監物《けんもつ》に預けられた。これも中の口から、平川口へ、青網《あおあみ》をかけた駕籠《かご》で出たのである。駕籠のまわりは水野家の足軽が五十人、一様に新しい柿の帷子《かたびら》を着、新しい白の股引をはいて、新しい棒をつきながら、警固《けいご》した。――この行列は、監物《けんもつ》の日頃不意に備える手配《てくばり》が、行きとどいていた証拠として、当時のほめ物になったそうである。
 それから七日目の二十二日に、大目付石河土佐守が、上使《じょうし》に立った。上使の趣は、「其方儀乱心したとは申しながら、細川越中守|手疵養生《てきずようじょう》不相叶《あいかなわず》致死去《しきょいたし》候に付、水野監物宅にて切腹|被申付《もうしつけらるる》者也」と云うのである。
 修理は、上使の前で、短刀を法の如くさし出されたが、茫然と手を膝の上に重ねたまま、とろうとする気色《け
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング