。」
 ――そう思うと、彼は、俄《にわか》に眼の前が、暗くなるような心もちがした。
 勿論この怖れは、一方絶えず、外界の刺戟から来るいら立たしさに、かき消された。が、そのいら立たしさがまた、他方では、ややもすると、この怖れを眼ざめさせた。――云わば、修理の心は、自分の尾を追いかける猫のように、休みなく、不安から不安へと、廻転していたのである。

       ―――――――――――――――――――――――――

 修理《しゅり》のこの逆上は、少からず一家中の憂慮する所となった。中でも、これがために最も心を労したのは、家老の前島|林右衛門《りんえもん》である。
 林右衛門は、家老と云っても、実は本家の板倉式部《いたくらしきぶ》から、附人《つけびと》として来ているので、修理も彼には、日頃から一目《いちもく》置いていた。これはほとんど病苦と云うものの経験のない、赭《あか》ら顔の大男で、文武の両道に秀《ひい》でている点では、家中《かちゅう》の侍で、彼の右に出るものは、幾人もない。そう云う関係上、彼はこれまで、始終修理に対して、意見番の役を勤めていた。彼が「板倉家の大久保彦左《おおくぼひこざ》」
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