ならなかったらしい。
 それが、翌日になると、また不吉《ふきつ》な前兆が、加わった。――十五日には、いつも越中守自身、麻上下《あさがみしも》に着換えてから、八幡大菩薩に、神酒《みき》を備えるのが慣例になっている。ところが、その日は、小姓《こしょう》の手から神酒《みき》を入れた瓶子《へいし》を二つ、三宝《さんぼう》へのせたまま受取って、それを神前へ備えようとすると、どうした拍子か瓶子は二つとも倒れて、神酒が外へこぼれてしまった。その時は、さすがに一同、思わず顔色を変えたと云う事である。

       ―――――――――――――――――――――――――

 翌日、越中守は登城すると、御坊主《おぼうず》田代祐悦《たしろゆうえつ》が供をして、まず、大広間へ通った。が、やがて、大便を催したので、今度は御坊主黒木|閑斎《かんさい》をつれて、湯呑み所際《じょぎわ》の厠《かわや》へはいって、用を足《た》した。さて、厠を出て、うすぐらい手水所《ちょうずどころ》で手を洗っていると突然|後《うしろ》から、誰とも知れず、声をかけて、斬りつけたものがある。驚いて、振り返ると、その拍子にまた二の太刀が、すかさず眉間《みけん》へ閃《ひらめ》いた。そのために血が眼へはいって、越中守は、相手の顔も見定める事が出来ない。相手は、そこへつけこんで、たたみかけ、たたみかけ、幾太刀《いくたち》となく浴せかけた。そうして、越中守がよろめきながら、とうとう、四《し》の間《ま》の縁に仆《たお》れてしまうと、脇差《わきざし》をそこへ捨てたなり、慌ててどこか見えなくなってしまった。
 ところが、伴をしていた黒木閑斎が、不意の大変に狼狽《ろうばい》して、大広間の方へ逃げて行ったなり、これもどこかへ隠れてしまったので、誰もこの刃傷《にんじょう》を知るものがない。それを、暫くしてから、漸《ようや》く本間|定五郎《さだごろう》と云う小拾人《こじゅうにん》が、御番所《ごばんしょ》から下部屋《しもべや》へ来る途中で発見した。そこで、すぐに御徒目付《おかちめつけ》へ知らせる。御徒目付からは、御徒組頭|久下善兵衛《くげぜんべえ》、御徒目付土田|半右衛門《はんえもん》、菰田仁右衛門《こもだにえもん》、などが駈けつける。――殿中では忽ち、蜂《はち》の巣を破ったような騒動が出来《しゅったい》した。
 それから、一同集って、手負《てお》い
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