忠義
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)板倉修理《いたくらしゅり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|刃物《はもの》を見つめて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]
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一 前島林右衛門《まえじまりんえもん》
板倉修理《いたくらしゅり》は、病後の疲労が稍《やや》恢復すると同時に、はげしい神経衰弱に襲われた。――
肩がはる。頭痛がする。日頃好んでする書見にさえ、身がはいらない。廊下《ろうか》を通る人の足音とか、家中《かちゅう》の者の話声とかが聞えただけで、すぐ注意が擾《みだ》されてしまう。それがだんだん嵩《こう》じて来ると、今度は極《ごく》些細《ささい》な刺戟からも、絶えず神経を虐《さいな》まれるような姿になった。
第一、莨盆《たばこぼん》の蒔絵《まきえ》などが、黒地に金《きん》の唐草《からくさ》を這《は》わせていると、その細い蔓《つる》や葉がどうも気になって仕方がない。そのほか象牙《ぞうげ》の箸《はし》とか、青銅の火箸とか云う先の尖《とが》った物を見ても、やはり不安になって来る。しまいには、畳の縁《へり》の交叉した角《かど》や、天井の四隅《よすみ》までが、丁度|刃物《はもの》を見つめている時のような切ない神経の緊張を、感じさせるようになった。
修理《しゅり》は、止むを得ず、毎日陰気な顔をして、じっと居間にいすくまっていた。何をどうするのも苦しい。出来る事なら、このまま存在の意識もなくなしてしまいたいと思う事が、度々ある。が、それは、ささくれた[#「ささくれた」に傍点]神経の方で、許さない。彼は、蟻地獄《ありじごく》に落ちた蟻のような、いら立たしい心で、彼の周囲を見まわした。しかも、そこにあるのは、彼の心もちに何の理解もない、徒《いたずら》に万一を惧《おそ》れている「譜代《ふだい》の臣」ばかりである。「己《おれ》は苦しんでいる。が、誰も己の苦しみを察してくれるものがない。」――そう思う事が、既に彼には一倍の苦痛であった。
修理の神経衰弱は、この周囲の無理解のために、一層昂進の度を早めたらしい。彼は、事毎《ことごと》に興奮した。隣屋敷
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