が、だんだん近くなつて来るなんぞは、手もなく浮世画の雪景色よ。するとその越後屋重吉と云ふ野郎が、先に立つて雪を踏みながら、
「旦那え、今夜はどうか御一しよに願ひたうござりやす。」
と何度もうるさく頼みやがるから、おれも異存がある訳ぢやなし、
「そりやさう願へれば、私も寂しくなくつて好い。だが私は生憎《あいにく》と、始めて来た八王子だ。何処も旅籠《はたご》を知ら無えが。」
「何《なあ》に、あすこの山甚《やまじん》と云ふのが、私《わつし》の定宿《ぢやうやど》でござりやす。」
と云つておれをつれこんだのは、やつぱり掛行燈のともつてゐる、新見世だとか云ふ旅籠屋だがの、入口の土間を広くとつて、その奥はすぐに台所へ続くやうな構へだつたらしい。おれたち二人が中へ這入《はひ》ると、帳場の前の獅噛《しがみ》火鉢へ噛りついてゐた番頭が、まだ「御濯《おすす》ぎを」とも云は無え内に、意地のきたねえやうだけれど、飯の匂と汁の匂とが、湯気や火つ気と一つになつて、むんと鼻へ来やがつた。それから早速|草鞋《わらぢ》を脱ぎの、行燈を下げた婢《をんな》と一しよに、二階座敷へせり上つたが、まづ一風呂暖まつて、何はともあ
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