ゐる。するとその中《うち》にどう云ふ訳か、度々さつき手前《てめえ》の話した、鼠小僧と云ふ名が出るぢや無えか。おれは妙だと思つての、両掛の行李を下げた儘、梯子口から下を覗いて見ると、広い土間のまん中にや、あの越後屋重吉と云ふ木念人《ぼくねんじん》が、繩尻は柱に括《くく》られながら、大あぐらをかいてゐやがる。そのまはりにや又若え者が、番頭も一しよに三人ばかり、八間《はちけん》の明りに照らされながら、腕まくりをしてゐるぢや無えか。中でもその番頭が、片手に算盤《そろばん》をひつ掴みの、薬罐頭《やくわんあたま》から湯気を立てて、忌々しさうに何か云ふのを聞きや、
「ほんによ、こんな胡麻の蠅も、今に劫羅《こふら》を経て見さつし、鼠小僧なんぞはそこのけの大泥坊になるかも知れ無え。ほんによ、さうなつた日にやこいつの御蔭で、街道筋の旅籠屋《はたごや》が、みんな暖簾《のれん》に瑕《きず》がつくわな。その事を思や今の内に、ぶつ殺した方が人助けよ。」
 と云ふ側から、ぢぢむさく髭《ひげ》の伸びた馬子半天《まごばんてん》が、じろじろ胡麻の蠅の面《つら》を覗きこんで、
「番頭どんともあらうものが、いやはや又|当《あ
前へ 次へ
全29ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング