の外別に御紛失物《ごふんじつもの》もなかつたのは、せめてもの御仕合せでございます。追つてはあの野郎も夜の明け次第、早速役所へ引渡す事に致しますから、どうか手前どもの届きません所は、幾重にも御勘弁下さいますやうに。」
と何度も頭を下げるから、
「何、胡麻の蠅とも知ら無えで、道づれになつたのが私の落度だ。それを何も御前《おめえ》さんが、あやまんなさる事は無えのさ。こりやほんの僅ばかりだが、世話になつた若《わけ》え衆《しゆ》たちに、暖え蕎麦《そば》の一杯も振舞つてやつておくんなせえ。」
と祝儀をやつて返したが、つくづく一人になつて考へりや、宿場女郎にでも振られやしめえし、何時までも床に倚《よ》つかかつて、腕組みをしてゐるのも智慧《ちゑ》が無え。と云つてこれから寝られやせず、何かと云ふ中にや六つだらうから、こりや一そ今の内に、ちつとは路が暗くつても、早立ちをするのが上分別だと、かう思案がきまつたから、早速身仕度にとりかかりの、勘定は帳場で払つて行かうと、外の客の邪魔になら無えやうに、そつと梯子口《はしごぐち》まで来て見ると、下ぢやまだ奉公人たちが、皆起きてゐると見えて、何やら話し声も聞えて
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