が、その時賑かな笑い声が、静な谷間に谺《こだま》しながら、活《い》き活《い》きと彼の耳にはいった。彼は我知らず足を止めて、声のする方を振り返った。と、洞穴の前に通《かよ》っている、細い岨路《そばみち》の向うから、十五人の妹をつれた、昨日《きのう》よりも美しい大気都姫が、眼早く彼の姿を見つけて、眩《まばゆ》い絹の裳《もすそ》を飜《ひるがえ》しながら、こちらへ急いで来る所であった。
「素戔嗚尊。素戔嗚尊。」
彼等は小鳥の囀《さえず》るように、口々に彼を呼びかけた。その声はほとんど宿命的に、折角《せっかく》橋を渡りかけた素戔嗚の心を蕩漾《とうよう》させた。彼は彼自身の腑甲斐《ふがい》なさに驚きながら、いつか顔中に笑《えみ》を浮べて、彼等の近づくのを待ちうけていた。
二十八
それ以来|素戔嗚《すさのお》は、この春のような洞穴の中に、十六人の女たちと放縦《ほうじゅう》な生活を送るようになった。
一月ばかりは、瞬く暇に過ぎた。
彼は毎日酒を飮んだり、谷川の魚を釣ったりして暮らした。谷川の上流には瀑《たき》があって、そのまた瀑のあたりには年中桃の花が開いていた。十六人の女
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