せたまま、相手の危急を救うべく、今度は大きな桶を一つ、持ち上げている所であった。
 彼は再び牛のような叫び声を挙げながら、若者が桶を投げるより先に、渾身の力を剣にこめて、相手の脳天へ打ち下そうとした。が、その時すでに大きな桶は、炎の空に風を切って、がんと彼の頭に中《あた》った。彼はさすがに眼が眩《くら》んだのか、大風に吹かれた旗竿《はたざお》のように思わずよろよろ足を乱して、危くそこへ倒れようとした。その暇に相手の若者は、奮然と身を躍らせると、――もう火の移った簾《すだれ》を衝《つ》いて、片手に剣《つるぎ》を提《ひっさ》げながら、静な外の春の月夜へ、一目散に逃げて行った。
 彼は歯を喰いしばったまま、ようやく足を踏み固めた。しかし眼を開《あ》いて見ると、火と煙とに溢《あふ》れた家の中には、とうに誰もいなくなっていた。
「逃げたな、何、逃げようと云っても、逃がしはしないぞ。」
 彼は髪も着物も焼かれながら、戸口の簾《すだれ》を切り払って、蹌踉《そうろう》と家の外へ出た。月明《つきあかり》に照らされた往来は、屋根を燃え抜いた火の光を得て、真昼のように明るかった。そうしてその明るい往来には、
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