う。私は魚が羨しいような気がしますよ。」
彼は黙ってもう一度、古沼へ糸を抛《ほう》りこんだ。が、やがて当惑らしい眼を尊へ向けて、
「どうもあなたのおっしゃる事は、私にはよく分りませんが。」と云った。
尊は彼の言葉を聞くと、思いのほか真面目《まじめ》な調子になって、白い顎髯《あごひげ》を捻《ひね》りながら、
「わからない方が結構ですよ。さもないとあなたも私のように、何もする事が出来なくなります。」
「どうしてですか。」
彼はわからないと云う口の下から、すぐまたこう尋《たず》ねずにはいられなかった。実際思兼尊の言葉は、真面目とも不真面目ともつかない内に、蜜か毒薬か、不思議なほど心を惹《ひ》くものが潜《ひそ》んでいたのであった。
「鉤《かぎ》が呑めるのは魚だけです。しかし私も若い時には――」
思兼尊の皺《しわ》だらけな顔には、一瞬間いつにない寂しそうな色が去来した。
「しかし私も若い時には、いろいろ夢を見た事がありましたよ。」
二人はそれから久しい間、互に別々な事を考えながら、静に春の木々を映している、古沼の上を眺めていた。沼の上には翡翠《かわせみ》が、時々水を掠《かす》めながら、
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