ぼれている嫁菜の花へ眼をやった。すると何故《なぜ》か薄笑いが、自然と唇《くちびる》に上《のぼ》って来た。彼はごろりとそこへ横になって、芽をふいた梢の向うにある、麗《うら》らかな春の空を眺めた。林の外ではかすかながら、まだ女たちの笑い声が聞えた。が、間もなくそれも消えて、後《あと》にはただ草木の栄《さかえ》を孕《はら》んだ、明るい沈黙があるばかりになった。……
何分《なんぷん》か後《のち》、あの羽根を傷《きずつ》けた山鳩は、怯《お》ず怯《お》ずまたそこへ還《かえ》って来た。その時もう草の上の彼は、静な寝息を洩らしていた。が、仰向《あおむ》いた彼の顔には、梢から落ちる日の光と一しょに、未だに微笑の影があった。鳩は嫁莱の花を踏みながら、そっと彼の近くへ来た。そうして彼の寝顔を覗くと、仔細らしく首を傾けた。あたかもその微笑の意味を考えようとでもするように。――
九
その日以来、彼の心の中には、あの快活な娘の姿が、時々鮮かに浮ぶようになった。彼は前にも云ったごとく、彼自身にもこう云う事実を認める事が恥しかった。まして仲間の若者たちには、一言《ひとこと》もこの事情を打ち明け
前へ
次へ
全106ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング