れてしまった時、さらに一人の若者が、のそのそそこへ下《くだ》って来た。夕日の光はとうに薄れて、あたりにはもう靄《もや》さえ動いていたが、その若者が素戔嗚だと云う事は、一目見てさえ知れる事であった。彼は今日射止めたらしい山鳥を二三羽肩にかけて、悠々と楡の下まで来ると、しばらく疲れた足を休めて、暮色の中に横たわっている部落の屋根を見下した。そうして独り唇に幸福な微笑を漂《ただよ》わせた。
 何も知らない素戔嗚は、あの快活な娘の姿を心に思い浮べたのであった。

        十七

 素戔嗚《すさのお》は一日一日と、若者の返事を待ち暮した。が、若者はいつになっても、容易に消息を齋《もたら》さなかった。のみならず故意か偶然か、ほとんどその後素戔嗚とは顔も合さないぐらいであった。彼は若者の計画が失敗したのではないかと思った。そのために彼と会う事が恥しいのではないかと思った。が、そのまた一方では、やはりまだあの快活な娘に、近づく機会がないのかも知れないと思い返さずにはいられなかった。
 その間に彼はあの娘と、朝早く同じ噴《ふ》き井《い》の前で、たった一度落合った事があった。娘は例のごとく素焼《すやき》の甕《かめ》を頭の上に載せながら、四五人の部落の女たちと一しょに、ちょうど白椿《しろつばき》の下を去ろうとしていた。が、彼の顔を見ると、彼女は急に唇を歪《ゆが》めて、蔑《さげす》むような表情を水々しい眼に浮べたまま、昂然《こうぜん》と一人先に立って、彼の傍を通り過ぎた。彼はいつもの通り顔を赤めた上に、その日は何とも名状し難い不快な感じまで味わされた。「おれは莫迦《ばか》だ。あの娘はたとい生まれ変っても、おれの妻になるような女ではない。」――そう云う絶望に近い心もちも、しばらくは彼を離れなかった。しかし牛飼の若者が、否やの返事を持って来ない事は、人の好い彼に多少ながら、希望を抱かせる力になった。彼はそれ以来すべてをこの未知の答えに懸けて、二度と苦しい思いをしないために、当分はあの噴き井の近くへも立ち寄るまいと私《ひそ》かに決心した。
 ところが彼はある日の日暮、天《あめ》の安河《やすかわ》の河原《かわら》を歩いていると、折からその若者が馬を洗っているのに出会った。若者は彼に見つかった事が、明かに気まずいようであった。同時に彼も何となく口が利《き》き悪《にく》い気もちになって、しばらくは入日《いりひ》の光に煙った河原蓬《かわらよもぎ》の中へ佇《たたず》みながら、艶々《つやつや》と水をかぶっている黒馬の毛並《けなみ》を眺めていた。が、追い追いその沈黙が、妙に苦しくなり始めたので、とり敢えず話題を開拓すべく、目前の馬を指さしながら、
「好い馬だな。持主は誰だい。」と、まず声をかけた。すると意外にも若者は得意らしい眼を挙げて、
「私です。」と返事をした。
「そうか。そりゃ――」
 彼は感嘆の言葉を呑みこむと、また元の通り口を噤《つぐ》んでしまった。が、さすがに若者は素知《そし》らぬ顔も出来ないと見えて、
「先達《せんだって》あの勾玉《まがたま》を御預りしましたが――」と、ためらい勝ちに切り出した。
「うん、渡してくれたかい。」
 彼の眼は子供のように、純粋な感情を湛《たた》えていた、若者は彼と眼を合わすと、慌《あわ》ててその視線を避けながら、故《ことさら》に馬の足掻《あが》くのを叱って、
「ええ、渡しました。」
「そうか。それでおれも安心した。」
「ですが――」
「ですが? 何だい。」
「急には御返事が出来ないと云う事でした。」
「何、急がなくっても好い。」
 彼は元気よくこう答えると、もう若者には用がないと云ったように、夕霞《ゆうがすみ》のたなびいた春の河原を元来た方へ歩き出した。彼の心の中には、今までにない幸福の意識が波立っていた。河原蓬も、空も、その空に一羽啼いている雲雀《ひばり》も、ことごとく彼には嬉しそうであった。彼は頭《かしら》を挙げて歩きながら、危く霞に紛れそうな雲雀と時々話をした。
「おい、雲雀。お前はおれが羨ましそうだな。羨ましくないと? 嘘をつけ。それなら何故《なぜ》そんなに啼き立てるのだ。雲雀。おい、雲雀。返事をしないか。雲雀。……」

        十八

 素戔嗚《すさのお》はそれから五六日の間、幸福そのもののような日を送った。ところがその頃から部落には、作者は誰とも判然しない、新しい歌が流行《はや》り出した。それは醜《みにく》い山鴉《やまがらす》が美しい白鳥《はくちょう》に恋をして、ありとあらゆる空の鳥の哂《わら》い物になったと云う歌であった。彼はその歌が唱われるのを聞くと、今まで照していた幸福の太陽に、雲が懸ったような心もちがした。
 しかし彼は多少の不安を感じながら、まだ幸福の夢から覚めずにいた。すでに美しい白鳥は、
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