う。私は魚が羨しいような気がしますよ。」
 彼は黙ってもう一度、古沼へ糸を抛《ほう》りこんだ。が、やがて当惑らしい眼を尊へ向けて、
「どうもあなたのおっしゃる事は、私にはよく分りませんが。」と云った。
 尊は彼の言葉を聞くと、思いのほか真面目《まじめ》な調子になって、白い顎髯《あごひげ》を捻《ひね》りながら、
「わからない方が結構ですよ。さもないとあなたも私のように、何もする事が出来なくなります。」
「どうしてですか。」
 彼はわからないと云う口の下から、すぐまたこう尋《たず》ねずにはいられなかった。実際思兼尊の言葉は、真面目とも不真面目ともつかない内に、蜜か毒薬か、不思議なほど心を惹《ひ》くものが潜《ひそ》んでいたのであった。
「鉤《かぎ》が呑めるのは魚だけです。しかし私も若い時には――」
 思兼尊の皺《しわ》だらけな顔には、一瞬間いつにない寂しそうな色が去来した。
「しかし私も若い時には、いろいろ夢を見た事がありましたよ。」
 二人はそれから久しい間、互に別々な事を考えながら、静に春の木々を映している、古沼の上を眺めていた。沼の上には翡翠《かわせみ》が、時々水を掠《かす》めながら、礫《こいし》を打つように飛んで行った。

        十三

 その間もあの快活《かいかつ》な娘の姿は、絶えず素戔嗚《すさのお》の心を領していた。殊に時たま部落の内外で、偶然彼女と顔を合わせると、ほとんどあの山腹の柏《かしわ》の下で、始めて彼女と遇《あ》った時のように、訳もなく顔が熱くなったり、胸がはずんだりするのが常であった。が、彼女はいつも取澄まして、全然彼を見知らないかのごとく、頭を下げる容子《ようす》も見せなかった。――
 ある朝彼は山へ行く途中、ちょうど部落のはずれにある噴《ふ》き井《い》の前を通りかかると、あの娘が三四人の女たちと一しょに、水甕《みずがめ》へ水を汲《く》んでいるのに遇《あ》った。噴き井の上には白椿《しろつばき》が、まだ疎《まばら》に咲き残って、絶えず湧きこぼれる水の水沫《しぶき》は、その花と葉とを洩《も》れる日の光に、かすかな虹《にじ》を描いていた。娘は身をかがめながら、苔蒸《こけむ》した井筒《いづつ》に溢《あふ》れる水を素焼《すやき》の甕《かめ》へ落していたが、ほかの女たちはもう水を汲《く》み了《お》えたのか、皆甕を頭に載せて、しっきりなく飛び交《か》う燕《つばくら》の中を、家々へ帰ろうとする所であった。が、彼がそこへ来た途端《とたん》に、彼女は品《ひん》良《よ》く身を起すと、一ぱいになった水甕を重そうに片手に下げたまま、ちらりと彼の顔へ眼をやった、そうしていつになく、人懐しげに口元へ微笑を浮べて見せた。
 彼は例の通り当惑しながら、ちょいと挨拶《あいさつ》の点頭《じぎ》を送った。娘は水甕を頭へ載せながら、眼でその挨拶に答えると、仲間の女たちの後《あと》を追って、やはり釘《くぎ》を撒《ま》くような燕の中を歩き出した。彼は娘と入れ違いに噴井《ふきい》の側へ歩み寄って、大きな掌《たなごころ》へ掬《すく》った水に、二口三口|喉《のど》を沾《うるお》した。沽しながら彼女の眼つきや唇の微笑を思い浮べて、何か嬉しいような、恥かしいような心もちに顔を赤めていた。と同時にまた己《おのれ》自身を嘲《あざけ》りたいような気もしないではなかった。
 その間に女たちはそよ風に領巾《ひれ》を飜《ひるがえ》しながら、頭の上の素焼の甕にさわやかな朝日の光を浴びて次第に噴《ふ》き井《い》から遠ざかって行った。が、間もなく彼等の中からは一度に愉快そうな笑い声が起った。それにつれて彼等のある者は、笑顔を後《うしろ》へ振り向けながら、足も止めずに素戔嗚の方へ、嘲るような視線を送りなぞした。
 噴き井の水を飲んでいた彼は、幸《さいわい》その視線に煩《わずら》わされなかった。しかし彼等の笑い声を聞くと、いよいよ妙に間が悪くなって、今更飲みたくもない水を、もう一杯手で掬って飲んだ。すると中高《なかだか》になった噴き井の水に、意外にも誰か人の姿が、咄嗟《とっさ》に覚束《おぼつか》ない影を落した。素戔嗚は慌《あわ》てた眼を挙げて、噴き井の向うの白椿の下へ、鞭《むち》を持った一人の若者が、のそのそと歩み寄ったのと顔を合せた。それは先日草山の喧嘩に、とうとう彼まで巻添《まきぞ》えにした、あの牛飼《うしかい》の崇拝者であった。
「お早うございます。」
 若者は愛想《あいそ》笑いを見せながら、恭《うやうや》しく彼に会釈《えしゃく》をした。
「お早う。」
 彼はこの若者にまで、狼狽《ろうばい》した所を見られたかと思うと、思わず顔をしかめずにはいられなかった。

        十四

 が、若者はさり気《げ》ない調子で、噴き井の上に枝垂《しだ》れかかった白椿の花を※[#
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