と》だの手力雄尊《たぢからおのみこと》だのと云う年長者《ねんちょうじゃ》に敬意を払っていた。しかしそれらの尊《みこと》たちは、格別彼に敵意らしい何物も持っていないらしかった。
 殊に思兼尊などは、むしろ彼の野蛮な性質に好意を持っているようであった。現にあの草山の喧嘩から、二三日経ったある日の午後、彼が例のごとくたった一人、山の中の古沼へ魚を釣りに行っていると、偶然そこへ思兼尊が、これも独り分け入って来た。そうして隔意なく彼と一しょに、朽木《くちき》の幹へ腰を下して、思いのほか打融《うちと》けた世間話などをし始めた。
 尊《みこと》はもう髪も髯も白くなった老人ではあるが、部落第一の学者でもあり、予《か》ねてまた部落第一の詩人と云う名誉も担《にな》っていた。その上部落の女たちの中には、尊を非凡な呪物師《まじものし》のように思っているものもないではなかった。これは尊が暇さえあると、山谷《さんこく》の間をさまよい歩いて、薬草などを探して来るからであった。
 彼は勿論思兼尊に、反感を抱くべき理由がなかった。だから糸を垂《た》れたまま、喜んで尊の話相手になった。二人はそこで長い間、古沼に臨んだ柳の枝が、銀《しろがね》のような花をつけた下に、いろいろな事を話し合った。
「近頃はあなたの剛力《ごうりき》が、大分《だいぶ》評判《ひょうばん》のようじゃありませんか。」
 しばらくしてから思兼尊は、こう云って、片頬《かたほ》に笑《えみ》を浮べた。
「評判だけ大きいのです。」
「それだけでも結構ですよ。すべての事は評判があって、始めてあり甲斐《がい》があるのですから。」
 素戔嗚にはこの答が、一向|腑《ふ》に落ちなかった。
「そうでしょうか。じゃ評判がなかったら、いくら私が剛力でも――」
「さらに剛力ではなくなるのです。」
「しかし人が掬《すく》わなくっても、砂金《しゃきん》は始《はじめ》から砂金でしょう。」
「さあ、砂金だとわかるのは、人に掬われてからの上じゃありませんか。」
「すると人が、ただの砂を砂金だと思って掬ったら――」
「やはりただの砂でも砂金になるでしょう。」
 素戔嗚は何だか思兼尊に、調戯《からか》われているような心もちがした。が、そうかと思って相手を見ても、尊の皺《しわ》だらけな目尻には、ただ微笑が宿っているばかりで、人の悪そうな気色《けしき》は少しもなかった。
「何だかそれじゃ砂金になっても、つまらないような気がしますが。」
「勿論つまらないものなのですよ。それ以上に考えるのは、考える方が間違っているのです。」
 思兼尊はこう云うと、実際つまらなそうな顔をしながら、どこかで摘んで来たらしい蕗《ふき》の薹《とう》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を嗅《か》ぎ始めた。

        十二

 素戔嗚《すさのお》はしばらく黙っていた。するとまた思兼尊《おもいかねのみこと》が彼の非凡な腕力へ途切《とぎ》れた話頭を持って行った。
「いつぞや力競《ちからくら》べがあった時、あなたと岩を擡《もた》げ合って、死んだ男がいたじゃありませんか。」
「気の毒な事をしたものです。」
 素戔嗚は何となく、非難でもされたような心もちになって、思わず眼を薄日《うすび》がさした古沼《ふるぬま》の上へ漂《ただよ》わせた。古沼の水は底深そうに、まわりに芽《め》ぐんだ春の木々をひっそりと仄《ほの》明るく映していた。しかし思兼尊は無頓着に、時々蕗の薹へ鼻をやって、
「気の毒ですが、莫迦《ばか》げていますよ。第一|私《わたし》に云わせると、競争する事がすでによろしくない。第二に到底勝てそうもない競争をするのが論外です。第三に命まで捨てるに至っては、それこそ愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》じゃありませんか。」
「しかし私《わたくし》は何となく気が咎《とが》めてならないのですが。」
「何、あれはあなたが殺したのじゃありません。力競べを面白がっていた、ほかの若者たちが殺したのです。」
「けれども私はあの連中に、反《かえ》って憎《にく》まれているようです。」
「それは勿論憎まれますよ。その代りもしあなたが死んで、あなたの相手が勝負に勝ったら、あの連中はきっとあなたの相手を憎んだのに違いないでしょう。」
「世の中はそう云うものでしょうか。」
 その時|尊《みこと》は返事をする代りに、「引いていますよ」と注意した。
 素戔嗚はすぐに糸を上げた。糸の先には山目《やまめ》が一尾《いちび》、溌溂《はつらつ》と銀のように躍《おど》っていた。
「魚は人間より幸福ですね。」
 尊は彼が竹の枝を山目の顎へ通すのを見ると、またにやにや笑いながら、彼にはほとんど通じない一種の理窟を並べ出した。
「人間が鉤《かぎ》を恐れている内に、魚は遠慮なく鉤を呑んで、楽々と一思いに死んでしま
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