を配《くば》って行った。松は水の上まで枝垂《しだ》れた枝を、鉄網のように纏《から》め合せて、林の奥の神秘な世界を、執念《しゅうね》く人目《ひとめ》から隠していた。それでも時たまその松が、鹿《しか》でも水を飲みに来るせいか、疎《まばら》に透《す》いている所には不気味なほど赤い大茸《おおたけ》が、薄暗い中に簇々《そうそう》と群《むらが》っている朽木も見えた。
益々夕暮が迫って来た。その時、彼は遥か向うの、水に臨んでいる一枚岩の上に、人間らしい姿が一つ、坐っているのを発見した。勿論この川筋には、さっきから全然|人煙《じんえん》の挙《あが》っている容子《ようす》は見えなかった。だからこの姿を発見した時も、彼は始は眼を疑って、高麗剣《こまつるぎ》の柄《つか》にこそ手をかけて見たが、まだ体は悠々と独木舟の舷に凭せていた。
その内に舟は水脈《みお》を引いて、次第にそこへ近づいて来た。すると一枚岩の上にいるのも、いよいよ人間に紛《まぎ》れなくなった。のみならずほどなくその姿は、白衣《びゃくい》の据を長く引いた、女だと云う事まで明らかになった。彼は好奇心に眼を輝かせながら、思わず独木舟の舳《みよし》に立ち上った。舟はその間も帆《ほ》に微風を孕《はら》んで、小暗《おぐら》く空に蔓《はびこ》った松の下を、刻々一枚岩の方へ近づきつつあった。
三十四
舟はとうとう一枚岩の前へ釆た。岩の上には松の枝が、やはり長々と枝垂《しだ》れていた。素戔嗚《すさのお》は素早く帆を下すと、その松の枝を片手に掴《つか》んで、両足へうんと力を入れた。と同時に舟は大きく揺れながら、舳に岩角《いわかど》の苔《こけ》をかすって、たちまちそこへ横づけになった。
女は彼の近づくのも知らず、岩の上へ独り泣き伏していた。が、人のけはいに驚いたのか、この時ふと顔を擡《もた》げて、舟の中の彼を見たと思うと、やにわに悲鳴を挙げながら、半ば岩を抱《いだ》いている、太い松の蔭に隠れようとした。しかし彼はその途端《とたん》に、片手に岩角を掴《つか》んだまま、「御待ちなさい。」と云うより早く、後《うしろ》へ引き残した女の裳《もすそ》を、片手にしっかり握りとめた。女は思わずそこへ倒れて、もう一度短い悲鳴を漏《も》らした。が、それぎり身を起す気色《けしき》もなく、また前のように泣き入ってしまった。
彼は纜《ともづな
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