》を松の枝に結ぶと、身軽く岩の上へ飛び上った。そうして女の肩へ手をかけながら、
「御安心なさい。私は何もあなたの体に、害を加えようと云うのじゃありません。ただ、あなたがこんな所に、泣いているのが不審《ふしん》でしたから、どうしたのかと思って、舟を止めたのです。」と云った。
 女はやっと顔を挙げて、水の上を罩《こ》めた暮色の中に、怯《お》ず怯《お》ず彼の姿を見上げた。彼はその刹那にこの女が、夢の中にのみ見る事が出来る、例えばこの夏の夕明《ゆうあか》りのような、どことなくもの悲しい美しさに溢《あふ》れている事を知ったのであった。
「どうしたのです。あなたは路でも迷ったのですか。それとも悪者にでも浚《さら》われたのですか。」
 女は黙って、首を振った。その拍子《ひょうし》に頸珠《くびだま》の琅※[#「王へん+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》が、かすかに触れ合う音を立てた。彼はこの子供のような、否《いや》と云う返事の身ぶりを見ると、我知らず微笑が唇に上《のぼ》って来ずにはいられなかった。が、女はその次の瞬間には、見る見る恥しそうな色に頬を染めて、また涙に沾《うる》んだ眼を、もう一度|膝《ひざ》へ落してしまった。
「では、――ではどうしたのです。何か難儀な事でもあったら、遠慮なく話して御覧なさい。私に出来る事でさえあれば、どんな事でもして上げます。」
 彼がこう優しく慰めると、女は始めて勇気を得たように、時々まだ口ごもりながら、とにかく一切の事情を話して聞かせた。それによると女の父は、この川上《かわかみ》の部落の長《おさ》をしている、足名椎《あしなつち》と云うものであった。ところが近頃部落の男女《なんによ》が、続々と疫病《えきびょう》に仆《たお》れるため、足名椎は早速|巫女《みこ》に命じて、神々の心を尋ねさせた。すると意外にも、ここにいる、櫛名田姫《くしなだひめ》と云う一人娘を、高志《こし》の大蛇《おろち》の犠《いけにえ》にしなければ、部落全体が一月《ひとつき》の内に、死に絶えるであろうと云う託宣《たくせん》があった。そこで足名椎は已《や》むを得ず、部落の若者たちと共に舟を艤《ぎ》して、遠い部落からこの岩の上まで、櫛名田姫を運んで来た後《あと》、彼女一人を後に残して、帰って行ったと云う事であった。

        三十五

 櫛名田姫《くしなだひめ》の話を聞き終る
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