と、素戔嗚《すさのお》は項《うなじ》を反《そ》らせながら、愉快そうに黄昏《たそがれ》の川を見廻した。
「その高志《こし》の大蛇《おろち》と云うのは、一体どんな怪物なのです。」「人の噂《うわさ》を聞きますと、頭《かしら》と尾とが八つある、八つの谷にも亘《わたる》るくらい、大きな蛇《くちなわ》だとか申す事でございます。」
「そうですか。それは好《よ》い事を聞きました。そんな怪物には何年にも、出合った事がありませんから、話を聞いたばかりでも、力瘤《ちからこぶ》の動くような気がします。」
 櫛名田姫は心配そうに、そっと涼しい眼を挙げて、無頓着な彼を見守った。
「こう申す内にもいつ何時《なんどき》、大蛇が参るかわかりませんが、あなたは――」
「大蛇を退治《たいじ》する心算《つもり》です。」
 彼はきっぱりこう答えると、両腕を胸に組んだまま、静に一枚岩の上を歩き出した。
「退治すると仰有《おっしゃ》っても、大蛇は只今申し上げた通り、一方《ひとかた》ならない神でございますから――」
「そうです。」
「万一あなたがそのために、御怪我《おけが》をなさらないとも限りませんし、――」
「そうです。」
「どうせ私は犠《いけにえ》になるものと、覚悟をきめた体でございます。たといこのまま、――」
「御待ちなさい。」
 彼は歩みを続けながら、何か眼に見えない物を払いのけるような手真似をした。
「私はあなたをおめおめと大蛇の犠《いけにえ》にはしたくないのです。」
「それでも大蛇が強ければ――」
「仕方がないと云うのですか。たとい仕方がないにしても、私はやはり戦うのです。」
 櫛名田姫《くしなだひめ》はまた顔を赤めて、帯に下げた鏡をまさぐりながら、かすかに彼の言葉を押し返した。
「私が大蛇の犠《いけにえ》になるのは、神々の思召《おぼしめ》しでございます。」
「そうかも知れません。しかし犠《いけにえ》になると云う事がなかったら、あなたは今時分たった一人、こんな所に来てはいないでしょう。して見ると神々の思召しは、あなたを大蛇の犠《いけにえ》にするより、反《かえ》って私に大蛇の命を断たせようと云うのかも知れません。」
 彼は櫛名田姫の前に足を止めた。と同時に一瞬間、厳《おごそか》な権威の閃《ひらめ》きが彼の醜《みにく》い眉目の間に磅※[#「石+薄」、第3水準1−89−18]《ぼうはく》したように思われた。
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