「あれは火雷命《ほのいかずちのみこと》だ。」と、囁いてくれるものがあった。 大男は静に手を挙げて、彼に何か相図《あいず》をした。それが彼には何となく、その高麗剣《こまつるぎ》を抜けと云う相図のように感じられた。そうして急に夢が覚めた。
彼は茫然と身を起した。微風に動いている樅《もみ》の梢《こずえ》には、すでに星が撒《ま》かれていた。周囲にも薄白い湖のほかは、熊笹の戦《そよ》ぎや苔《こけ》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》が、かすかに動いている夕闇があった。彼は今見た夢を思い出しながら、そう云うあたりへ何気《なにげ》なく、懶《ものう》い視線《しせん》を漂《ただよ》わせた。
と、十歩と離れていない所に、夢の中のそれと変りのない、一本の枯木のあるのが見えた。彼は考える暇《いとま》もなく、その枯木の側へ足を運んだ。
枯木はさっきの落雷に、裂《さ》かれたものに違いなかった。だから根元には何かの針葉《しんよう》が、枝ごと一面に散らばっていた。彼はその針葉を踏むと同時に、夢が夢でなかった事を知った。――枯木の根本には一振《ひとふり》の高麗剣《こまつるぎ》が竜の飾のある柄《つか》を上にほとんど鍔《つば》も見えないほど、深く突き立っていたのであった。
彼は両手に柄を掴《つか》んで、渾身《こんしん》の力をこめながら、一気にその剣《つるぎ》を引き抜いた。剣は今し方|磨《と》いだように鍔元《つばもと》から切先《きっさき》まで冷やかな光を放っていた。「神々はおれを守って居て下さる。」――そう思うと彼の心には、新しい勇気が湧くような気がした。彼は枯木の下に跪《ひざまず》いて天上の神々に祈りを捧げた。
その後《のち》彼はまた樅《もみ》の木陰《こかげ》へ帰って、しっかり剣を抱《いだ》きながら、もう一度深い眠に落ちた。そうして三日三晩の間、死んだように眠り続けた。
眠から覚めた素戔嗚は再び体を清むべく、湖の汀《なぎさ》へ下りて行った。風の凪《な》ぎ尽した湖は、小波《さざなみ》さえ砂を揺《ゆ》すらなかった。その水が彼の足もとへ、汀に立った彼の顔を、鏡のごとく鮮かに映して見せた。それは高天原《たかまがはら》の国にいた時の通り、心も体も逞《たくま》しい、醜《みにく》い神のような顔であった。が、彼の眼の下には、今までにない一筋の皺《しわ》が、いつの間にか一年間の悲しみの
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