気も、すべてが彼には、昔見た夢の中の景色のような、懐しい寂莫《せきばく》に溢《あふ》れていた。
「何かおれの忘れていた物が、あの山々の間に潜んでいる。」――彼はそう思いながら、貪《むさぼ》るように湖を眺め続けた。しかしそれが何だったかは、遠い記憶を辿《たど》って見ても、容易に彼には思い出せなかった。
 その内に雲の影が移って、彼を囲む真夏の山々へ、一時に日の光が照り渡った。山々を埋《うず》める森の緑は、それと共に美しく湖の空に燃え上った。この時彼の心には異様な戦慄《せんりつ》が伝わるのを感じた。彼は息を呑みながら、熱心に耳を傾けた。すると重なり合った山々の奥から、今まで忘れていた自然の言葉が声のない雷《いかずち》のように轟《とどろ》いて来た。
 彼は喜びに戦《おのの》いた。戦きながらその言葉の威力の前に圧倒された。彼はしまいには砂に伏して、必死に耳を塞《ふさ》ごうとした。が、自然は語り続けた。彼は嫌でもその言葉に、じっと聞き入るより途《みち》はなかった。
 湖は日に輝きながら、溌溂《はつらつ》とその言葉に応じた。彼は――その汀《なぎさ》にひれ伏している、小さな一人の人間は、代る代る泣いたり笑ったりしていた。が、山々の中から湧き上る声は、彼の悲喜には頓着なく、あたかも目に見えない波濤のように、絶えまなく彼の上へ漲《みなぎ》って来た。

        三十二

 素戔嗚《すさのお》はその湖の水を浴びて、全身の穢《けが》れを洗い落した。それから岸に臨んでいる、大きな樅《もみ》の木の陰へ行って、久しぶりに健《すこや》な眠に沈んだ。が、夢はその間も、深い真夏の空の奥から、鳥の羽根が一すじ落ちるように、静に彼の上へ舞い下《さが》って来た。――
 夢の中は薄暗かった。そうして大きな枯木が一本、彼の前に枝を伸《のば》していた。
 そこへ一人の大男が、どこからともなく歩いて来た。顔ははっきり見えなかったが、柄《つか》に竜《りゅう》の飾《かざり》のある高麗剣《こまつるぎ》を佩《は》いている事は、その竜の首が朦朧《もうろう》と金色《こんじき》に光っているせいか、一目にもすぐに見分けられた。
 大男は腰の剣《つるぎ》を抜くと、無造作《むぞうさ》にそれを鍔元《つばもと》まで、大木の根本へ突き通した。
 素戔嗚はその非凡な膂力《りょりょく》に、驚嘆しずにはいられなかった。すると誰か彼の耳に、
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